ここから本文です
義勇任侠道(ぎゆうにんきょう)
「義勇」とは、正義と勇気。 「任侠」とは弱いものが苦しんでることを見逃せない気性の事である。

書庫全体表示

関東松田組vs華僑グループ イメージ 1

★経緯★
敗戦後の国鉄新橋駅・西口一帯をショバにしたのが、【カッパの松】こと松田義一。
戦時中の松田は大陸浪人だったが、日本の敗戦で帰国、芝に事務局を開く。

当時の新橋は無数の露天が並んでいて、色んな奴が勝手にショバ代を取っていた。
【カッパの松】こと松田義一は、強そうな相手に片っ端からゴロをまいて叩きのめし、自分の子分にしていく。

復員軍人、特攻隊くずれ、博徒、愚連隊を引き入れ、わずか4ヶ月で1000人以上の組になる。
昭和20年10月、【関東松田組】が正式に誕生する。

露天は朝方〜昼に開くので、2枚1組の札を配り(一枚は控え)、夕方にショバ代を回収していた。
新橋周辺でも、1500軒以上の露天が出ており、ショバ代は1日で白米を一升。
組長の松田義一が半分を取り、残りを子分達が分けた。

関東松田組は急成長を続けたが、周辺のヤクザとも協議の結果、
飯島一家・二代目組長・新井幸太郎
生井一家・六代目組長・篠原縫殿之助
の仲介で、
引退したテキ屋【松坂屋・五代目】の跡目に入った。 


★抗争発生★
松坂屋の跡目を継いだ【カッパの松】こと松田義一は、新橋駅西口広場に「新橋新生マーケット」を建設。
露天商を吸収してデパートにするべく、昭和21年3月に工事を開始した。

だが新橋の闇市には、台湾人の露天も数多くあり、
「新橋でデパートやんなら俺達も入れろや!」と権利を主張し交渉へ。

松田側:「15軒でどうだ?」
台湾側:「100軒入居させろや!」
(デパートの規模は400軒。25%の店は台湾系にやらせろと主張)
松田側:「ふざけんな、カス」
台湾側:「松田には仕切らせねーぞ!」
交渉は決裂し、両者に不穏な空気が流れ始める。

昭和21年6月10日:【カッパの松】こと松田義一組長が、元舎弟に組本部で射殺される。(享年35)

6月16日:松田夫人・芳子が跡目を継ぐ。(極道の女組長として第一号)

6月17日:新橋マーケットの棟上式に「工事させるか!」と、華僑200人がトラック2台で乱入。(初衝突)
港区愛宕署と米軍MPが出動して、何とか解散させ、松田側と華僑側が協議に入るが平行線のまま決裂。

7月16日:小競り合いが続く中、華僑50人が新橋の建設現場を襲撃。
→松田組の組員一人が死亡、8人が重症。
→松田側は決死隊を編成し華僑の本部を襲撃、拳銃乱射→日本刀で斬り込み→華僑側3人が重症
→さらに華僑が返す。
→さらに松田側が返す、
その繰り返しが続く。



★抗争終結★
松田組の二代目親分・芳子(松田義一夫人・日本の女組長第一号)は、関八州の親分衆に抗争を報告。

尾津喜之助、阿部重作、新井幸太郎、山本五朗、芝山益久、篠原縫殿之輔、
といった親分衆が松田側に加勢し、各地からの助っ人を含めると、2000人近くにまでなった。

新橋界隈の商店も松田組を応援して、米や酒、肉や野菜などを差し入れした。
しかし、わずかな拳銃と日本刀しか武器がなかったので、飛龍(爆撃機)の機関銃(12.7mm/50口径)と、750発の弾丸を入手した。

7台のトラックに分乗した華僑部隊300人を虎ノ門付近で発見し、松田組側が機関銃を発射。しかし機関銃は故障。
米軍MPが出動し、装甲車両4台が松田組部隊を包囲して、その場を解散させた


機関銃の故障でケガ人は出なかったが、新橋の全面戦争は回避され、日本側の勝利という形で終結。

松田組二代目組長・芳子は、1年ほど組長を務めたが、昭和22年7月に松田組を解散させてカタギになる。
その後、大阪に流れて昭和31年に麻薬中毒で死去したと言われる。(享年29歳)
  

この記事に

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
  • 名前
  • パスワード
  • ブログ

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事