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戦国時代の林田氏は肥前有馬氏の家臣として活躍する。肥前林田氏と肥前有馬氏の関係は二説考えられる。第一に有馬氏の祖である藤原経澄が肥前国高来郡に地頭職を領し入国した際に随従したとする見解である。この説に立つと最初から有馬氏の被官であったことになる。
第二に元々は有馬氏とは関係なく、国人被官化の中で家臣になったとする見解である。林田泰範は従五位下・肥後守になっており、地頭の家臣になることはバランスを失する。南北朝時代には林田隠岐守が独自に活躍している。このため、林田氏が有馬氏の家臣になった経緯は、戦国大名の国人被官化の文脈で説明されるべきだろう。
有馬氏家臣の林田氏にレオ林田助右衛門がいる。レオ林田助右衛門は名前から連想できるように切支丹である。有馬氏は切支丹大名であり、家臣が切支丹になることも珍しくなかった。ところが、有馬直純は江戸幕府の禁教令に従って改宗し、領内の切支丹弾圧に転じた。レオ林田助右衛門はアドリアノ高橋主水、レオ武富勘右衛門と共に棄教を拒否した。慶長18年(1613年)に家族と共に火刑にされた。レオ林田助右衛門の妻のマルタや娘のマグダレナ19歳、息子のディエゴ12歳も一緒に火刑にされた。
ローマ教皇庁はレオ林田助右衛門らの殉教者を「ペトロ岐部と187殉教者」として福者に列した。列福式を2008年11月24日に長崎で開催した。日本国内初の列福式であった。レオ林田助右衛門は世界的に見れば最も著名な林田氏になるだろう。
有馬直純は慶長19年(1614年)に日向国延岡に転封になるが、旧領では新しい領主・松倉重政や勝家は切支丹弾圧を続け、年貢の厳しい取立てなどの苛政も加わった。これが日本最大規模の内戦・一揆である島原の乱の原因である。有馬家は幕府軍として出陣した。家臣の林田弥野左衛門が討ち死にしている。
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