『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

ハプスブルグ家

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1755年11月2日オーストリア ハプスブルク家で ―――


マリア=テレジアとその夫で神聖ローマ皇帝のフランツ1世の間の娘(第9子)として誕生w
自由奔放に成長しイタリア語・ダンスを得意とし楽器演奏は作曲家グリックにハープや
クラヴサンに習ったりしてますw

オーストリアフランスの同盟関係を深めるため母マリア・テレジアにより
ルイ・オーギュスト(後のフランス国王ルイ16世)との政略結婚が画策され
1763年5月メルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されたがはかばかしくなく
1765年結婚反対者であるルイの父母の王太子夫妻の死亡により
1769年6月ルイ15世から実母マリア・テレジアへ婚約文書が送られましたw

フランス語が全く出来なかったのでオルレアン司教のヴェルモン神父につき習います!


1770年5月16日14歳のときベルサイユ宮殿で王太子ルイと結婚しましたw
「マリー・アントワネットの讃歌」が作られ祝われましたが………
趣味・気質などの不一致とルイ16世は先天的性不能があり後日治療を受ける迄
子供は生まれかった事から夫婦仲は良くありませんでした…

寂しさを紛らわすため奢侈に没頭していたという説があり
夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしたという噂もありますw
また賭博にも熱中しましたが金銭感覚は文化王でもあった父譲りだったけど
賭博に関しては子供が生まれるとピッタリと止めてます!
1785年次男ルイ・シャルル(後のルイ17世(フランス王))が誕生していますw

彼女は大変に移り気で享楽的な性格で読書も嫌いであったといーますw
母のマリア・テレジアは娘の身を案じ度々手紙を送って諌めたが効果は無かったみたいですw
またマリー・アントワネットとスウェーデン貴族フェルセン伯爵との恋
フランス宮廷では専らの噂となっちゃいますw
そして彼女は大貴族達を無視しポリニャック伯夫人等の自分のお気に入りの
少数の貴族達のみを極端に偏愛したんですねぇw
さらに“首飾り事件”ってのが起きちゃいます!!

こんな感じぃで彼女に関する騒動は絶えなかったんですねw


地味な夫のルイ16世を見下している所もあったといーます!
ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたみたいですw
彼女の寵に加われなかった貴族達はマリー・アントワネットとその寵臣をこぞって非難します…
ヴェルサイユ以外特にパリではこれらの中傷が酷かったそーです!!
多くは流言飛語だったけどパリの民衆の憎悪をかき立てる結果となっちゃいます・・・

ついに国庫は底をつき徴税を試みたけど民衆の負担は既に限界に達してて貴族からも反発を受けるw

民衆の不満は爆発しフランス革命を引き起こしちゃいます

ポリニャック伯夫人はそれまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていたにも関わらず
アントワネットを真っ先に見捨てオーストリアに亡命しました(怒)

マリー・アントワネットに最後まで誠実だったのは ―――
義妹のエリザベート内親王とランバル公妃だけでしたぁ…

ヴェルサイユ宮殿からテュイルリー宮殿に国王夫妻は身柄を移されて
そこでアントワネットはフェルセンの力を借りフランスを脱走し
兄に助けを求めようと計画するが失敗……これがヴァレンヌ事件です…

この事件により親国王派の国民からも見離され8月10日事件でチュイルリー宮からタンプル塔に幽閉され
1793年1月旦那ルイ16世は死刑となりシャルル・アンリ・サンソンによりギロチンで首を刎ねられる!
王位後継者のルイ・シャルル(後のルイ17世)はジャコバン派の靴屋にひきとられ
ぞんざいな扱いを受けたといーます…
その後コンシェルジュリー牢に移されアントワネットに対する裁判も行われたが
その結果は初めから決まっていたんですよぉ…
結局同年10月15日革命裁判所で死刑の判決を受け

翌16日旦那の後を追ってギロチンで首を刎ねられ露と消えてしまいます…


処刑当日国民の激しい憎悪の対象となっていたアントワネットは
後ろ手に縛られ肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられて行きましたw

その最後の言葉は兵士の足を踏んでしまった時に発した

「ごめんなさい・・・わざとではありませんのよ」


また、国民のアントワネットヘの憎悪の激しさは
彼女の友人であり最後迄国王夫妻の側に立ち続けたランバル公妃の惨殺にも表れてます…

そんで処刑が決定した直後のアントワネットがエリザベート内親王にあてた書簡には

「犯罪者として処刑されるのではないので何ら恥ずべきことではない」

といった内容が記されてましたw
民衆は王妃の政治的無知さやその結果としての民衆への配慮の欠如・貴族も含めた無知無能ぶりや
税収の浪費などに対して死刑という判決を下したとも考えられ
その最期においても民衆との乖離は正されなかったんです…
結局アントワネットの名誉回復には死後35年以上の時を費やしました…
現在においてマリー・アントワネットの悪評は殆どが中傷やデマだとされてますw
ただし一部の寵臣のみ寵愛しヴェルサイユの品位の低下などを招いた事は事実で
それらの失態が多大に誇張されてパリに意図的に流され
王妃に対する悪意と憎悪が殊更生み出されたとされているんですよ!
しかしマリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りはむしろ革命が始まってからの方が多い!!
彼女はフランスの情報をオーストリアなどに流し反革命の立場をとってたんです!
この事がフランスを外国に売った裏切り行為ととられ(外敵通牒)
それだけでも死に値する罪状となったんですねぇ…
彼女自身は絶対王政を維持する為に良かれと思ってした行為が
逆に大革命に火を付け燃え上がらせる結果となってしまったんです…

「パンが無ければお菓子を食べればいい」


民衆が貧困と食料難に陥った際のマリー・アントワネットが言ったとされてますw
原文は「Qu'ils mangent de la brioche」
         訳は「彼らにはブリオッシュを食べさせなさい」


ちなみにクロワッサンはマリー・アントワネットがオーストリアから嫁いだ時に
フランスに伝えられたという伝説があるんですぅ……知ってましたか?

閉じる コメント(7)

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実はマリーアントワネットに関しては、るびも大好きな人です。伝記を小学生のときに読んだからかなぁ===。まるこのプログ、楽しみにしてるよ^^

2005/11/14(月) 午前 8:53 [ るびるび♪ ]

ありがとーwがんがるね!ちなみに今朝のまるこの朝食は“クロワッサン”と牛乳だったよ!

2005/11/14(月) 午後 1:47 まるこ

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くろわっさん。。。う〜〜〜ん、ヨーロッパ風朝食やね^^

2005/11/14(月) 午後 3:03 [ rns**163 ]

僕は、このあたりの歴史は、少女漫画の「ベルサイユのばら」で詳しく知りました。物語として、とてもよく出来た作品ですね、今更ながら(^^)

2005/11/15(火) 午前 0:00 [ ユウ ]

きっと 彼女は 相当 マイペースだったのかな〜〜。。 周りの人の 怒りとか 感じとれない お嬢様育ちだったのかな〜。。。 歴史動かしちゃうって。。。。すごいね〜〜。。

2005/11/16(水) 午後 3:12 [ ☆☆☆ ]

歴史って支配層の人がする何気ないちょっとした事で一変したりするんだよー!!でも…まるこが何かしても何にも変わらない(爆)

2005/11/17(木) 午後 11:47 まるこ

そんなことないよ〜♪まるこを 見てる人は いっぱいいるでしょ!まるの大事な人も♪

2005/11/19(土) 午前 8:48 [ ☆☆☆ ]


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