今から1066年前の今日 天慶2年(939年)12月15日
下野・上野の国府を落とし関東一円を手中に収め「新皇」を名乗ったんです!!
平將門は平安時代中期の武将ですw通称は相馬小次郎と言うんですw
桓武天皇の子孫で平氏の姓を授けられた高望王の孫にあたります!
鎮守府将軍平良將の子で903年頃に生まれてますw
下総・常陸に広がった平氏一族の抗争に端を発し関東諸国の国衙を襲った事から
朝廷から敵と見なされ粛清されちゃいます…俗に言う『平將門の乱』ですよ!!
死後は築土神社・神田明神・国王神社等に祀られてるんですよ!
平將門の存在は“武士”の発生を示すとの評価もあるんですよw
父平良將は下総国佐倉が領地と伝えられ“佐倉市將門”と地名も残るけど根拠となる史料は無いんですw
將門は地方より平安京へ出て藤原北家の藤原忠平と主従関係を結ぶんだけど父良將が急死したんで
領国へ戻って来ます…まさに出稼ぎですね!!!
長子相続制度の確立してない当時良將の遺領は伯父や叔父平良兼に独断で分割されちゃってます…
『將門記』等によれば平氏一族の親族争いは常陸国前国司の源護の娘とか
良兼の娘を巡る争いとも伝えられているんですよね…
935年2月に將門は源護の息子扶に常陸国真壁郡野本で襲撃されちゃうけど
これを撃退し將門は大串・取手から護の本拠である真壁郡へ進み護の一族を討ち
更に護の援軍として駆けつけた伯父平國香も討ち果たしちゃうんです!!
一族の平良正は軍勢を集め鬼怒川沿いの新治郷川曲に陣を構えて將門と対峙するんだけど
將門は良正の軍も撃破しちゃうんですよw
反將門軍は平良兼を盟主に国香の嫡子平貞盛等の兵を加えて將門と戦うけど将門の奇襲を受けて
下野国の国衙に保護を求めるます!將門は下野国国府をも包囲し一部の包囲は解いて良兼を逃亡させ
国衙と交渉して自らの正当性を認めさせちゃうんですよね!……策士!!
同年將門に対し朝廷から平一族の私闘についての釈明を求める召喚命令が出て將門は平安京に赴いて
検非違使庁で訊問を受けるけど937年4月に帰国を赦されてるんですね…
帰国後も將門は良兼を初め一族の大半と対立し良兼は將門の父良將や高望王など父祖の肖像を
掲げて将門の常羽御厩を攻めたんですよ……これによって多くの軍馬を喪失すると将門は退却し
更に妻子も捕らえられちゃうんですよぉ!!!
将門は朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出るけど朝廷は平良兼・平貞盛・源護らに対し
ついに將門追討令を出すんですよーw
將門は良兼らの兵を筑波山に駆逐しそれから3年の間に良兼は病死し
平將門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いたんです!!
この頃朝廷への租税を滞納していた事により追捕令が出ていた常陸国の藤原玄明が將門に庇護を
求めると將門は玄明を匿い939年常陸府中へ赴いて追捕撤回を求めるんだけど……
ここで將門軍は突如攻撃を受けちゃいます!!
將門は止む無く反撃して常陸介藤原維幾を捕らえ国衙を陥落させて
結果的に朝廷に対して反旗を翻すことになってしまうんですね……本人の意に反して……
將門の側近となってた桓武天皇の子孫と言われる興世王の進言に従いここで朝廷を見切って
同年12月15日に関東一円を手中に収めて「新皇」を名乗るんです!!
危機感を抱いた朝廷は全国の民に將門の首を取った者は貴族とする旨の通達を出すんです!
2ヶ月後940年仇敵國香の嫡子平貞盛と藤原秀郷との会戦中に流れ矢に当たって死んじゃいます…
その首は平安京へ運ばれ晒し首にされちゃいます…
この将門の首に関連し全国各地に首塚伝承があって最も有名なのは 「東京大手町の首塚」ですw
將門の乱は同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に 「承平天慶の乱」と呼ばれてますw
なお有名な成田山新勝寺は將門を調伏する為に朝廷によって建てられたお寺なんですよ!
それなんで將門と家来の子孫は1080年以上たつ今でも成田山新勝寺へは参詣しないそーですw
出生地でもある佐倉市將門に古くから住む人々も参詣しない家が多く残るんだそーですよw
また築土神社や神田明神の氏子も成田山新勝寺へ詣でると
産土神である平将門命の加護を受ける事が出来なくなるとの伝承で参詣しない人が多いんだそーです!
将門の名誉回復は江戸幕府3代将軍徳川家光の時代に烏丸光広が将門伝説の顛末を聞き朝廷に赦免を申請したんで朝敵の汚名を返上するに至ったんです!でも歴史上で將門は朝廷に戈を向けた事には変わりないんで明治から第2次世界大戦終結迄は天皇に反き「新皇」と名乗った逆賊として扱われたんですよね…戦後は反天皇制の時代的機運から朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい新な時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなったんです!!更に現在ではそのようなイデオロギー的な見方も沈静しより学術的な面からの研究が期待されてるんですw一方で江戸時代徳川幕府によって江戸の街を守る霊威たるべく神田明神の祭神の一柱として祀られたんです!!神田明神は幕府によって江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座されたと言われ幕府の尊崇を受けたんですwこれは徳川氏が朝廷に反逆した將門を将軍居城の鬼門に据えることで幕政に朝廷を関与させない決意の現われだといーますw神田明神の「かんだ」は首を斬られて殺された將門の胴体…つまり「からだ」が変化したものという説もあるんですよ♪東京都千代田区大手町にある将門の首塚は移転等の企画があると必ず事故があったりして將門の怨霊の威力を感じる人もいるけど東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏の小説『帝都物語』で採り上げられる等して広く知れ渡ると「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになったんですよ!
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地元ッチクな話題で嬉しかった るびでしたぁ〜〜〜♪関係すると言われてる史跡多いし^^
2005/12/19(月) 午後 4:47 [ るびるび♪ ]
仕事の関係で○島県にいた時何度かドライブに行ったよー!!
2005/12/21(水) 午後 2:26
トラックバックありがとうございます!成田山新勝寺に未だに参詣しない人々がいるというのは、すごいですね。怨みや悲しみっていうのは中々消えないんですね。
2007/1/27(土) 午後 9:24 [ - ]
正直今では怨みとかじゃなくて習慣になってんだと思いますよ…昭和51年(1976年)に放映されたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』の出演者も成田山新勝寺の節分豆まきへの参加辞退をしたんです!!ちなみに平將門の子孫は相馬中村藩の相馬家ですw
2007/1/27(土) 午後 11:56
私の御先祖は、将門公を討った秀郷公なのでどうにも無視
できません。ただ最初は対立していなかったようです。ただ
将門公の下品な行動が、秀郷公はなじめなかったために袂を
別れたようですよ。
2008/9/30(火) 午後 6:57
藤原秀郷は藤原北家魚名流ですよねw伊達家等も排出してますが…その後東北一円を支配する奥州藤原家も秀郷の子孫と言われてます!!実は…私まるこは無類の「奥州藤原家ファン」なんです!
2008/10/2(木) 午後 3:53