コンスタンティノス11世ドラガセスは東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝東ローマ帝国最後の皇帝であるコンスタンティノスは1409年2月9日皇帝マヌエル2世パレオロゴスの四男として首都コンスタンティノポリスで生まれたんです! コンスタンティノスはれっきとしたパレオロゴス王家の生まれであったけど 彼だけは実母ヘレナの姓であるドラガシュのギリシャ語形である「ドラガセス」を姓としたんですw 1428年コンスタンティノスはペロポネソス半島にある帝国領のモレア専制公国の君主となります!! モレア専制公時代に南ギリシャでの支配領域を拡大しギリシャ人勢力最後の希望の星となったんだけど オスマン=トルコ帝国のムラト2世に敗れギリシャ人勢力再興の夢は断たれちゃったんです… 1448年彼の実兄である皇帝ヨハネス8世パレオロゴスが崩御し コンスタンティノスと彼の兄弟のデメトリオスとの間に後継者争いが起きたんだけど 結局コンスタンティノスが翌年1月6日にモレア専制公国の首都ミストラで帝位に就いたんですw 3月にコンスタンティノス11世はコンスタンティノポリス(現イスタンブール)入りし オスマン=トルコ帝国のムラト2世と平和条約を結ぶんです! 1451年2月にムラト2世が没し後を継いだメフメト2世は当初は友好的な態度を取ったけど コンスタンティノスが帝国を維持するのにとったオスマン帝国撹乱作戦に対して怒り 翌年7月にはボスポラス海峡のヨーロッパ側沿岸にルメリ・ヒサール(バルカン城塞)という名の 城砦を築きコンスタンティノポリス征服の準備をし始めたんですよ… これを受けコンスタンティノスは西欧諸国からの援軍を得るため1452年の暮れに 東方正教会をローマ・カトリック教会に統合させると宣言します!!! これは兄ヨハネス8世がフィレンツェ公会議(1439〜45年開催)で署名した東西教会の合同決議に 従ったものだったけどこの宣言は国民から猛反発を受け大臣兼軍司令官ルカス・ノタラス大公に 至っては「枢機卿の四角帽を見るくらいならスルタンのターバンを見るほうがマシだ」と 公言して憚らなかったんです…まさにコンスタンティノス11世の独断ですw 結局西欧からの援軍も得られずコンスタンティノスの最後の外交的努力も 国内に亀裂を生んだだけで終わっちゃったんですねぇ……あは…… 1453年4月メフメト2世率いる10万のオスマン=トルコ帝国軍はコンスタンティノポリスを包囲! メフメト2世はコンスタンティノポリスを明け渡せばモレアの領有を認めると提案したけど コンスタンティノス11世はローマ皇帝として最後迄戦う事を選んじゃうんです!コンスタンティノス11世率いる東ローマ軍は2ヶ月に渡って抵抗を続けたけど5月29日未明ついにオスマン軍が城壁を突破しコンスタンティノスは市内に 雪崩れ込んできたオスマン軍の中に姿を消してしまいます……享年44歳…… こうしてアウグストゥス以来のローマ皇帝の継承者は絶えて… 紀元前753年に起源を発し2200年間続いたローマ帝国は滅亡!コンスタンティノポリスの陥落後コンスタンティノス11世のものとされる遺体が発見されてます!遺体は数日間晒されたけどその後最高の栄誉をもって埋葬されてます! でもそれが本当にコンスタンティノス11世の遺体だったがどうかは不明で オスマン=トルコ帝国支配下のギリシア人の間には 「いつかコンスタンティノスが復活して東ローマ帝国を再興させる」という伝説が生れたんですw また正式には認められてないけど彼を“聖人”と考える正教徒もいたんですよw コンスタンティノス11世の皇帝即位後に代りにモレア専制公国を継いだデメトリオスとトマスの 2人の弟は1460年にオスマン=トルコ帝国に降伏してます… 降伏後デメトリオスはオスマン=トルコ帝国に仕え トマスはイタリアへ亡命しちゃいます… このコンスタンティノス11世の弟トマスの家系はイタリアやイギリス等で現在迄存続してます!! またトマスの娘のゾエ(ソフィア)はモスクワ大公国のイヴァン3世に嫁いでます…
なので代々ロシア帝国皇帝はローマ帝国皇帝の後継者を自負してたんですね!! |
最後の皇帝
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おお,コンスタンティノープル攻防戦のときの皇帝か。家系がまだ続いているとは,知らなかった。
2005/12/17(土) 午後 7:39
この「最後の皇帝」って面白いね。思わず,読んじゃった。授業ネタに使わせてもらうよ。
2005/12/17(土) 午後 7:40
どーぞお使い下さいませwでも…そろそろネタ切れかも……
2005/12/19(月) 午前 1:02