後亀山天皇は南北朝時代の第99代で南朝最後の第4代天皇
名を熙成(ひろなり)という1347年生まれですw
父 長慶天皇から1383年〜1384年の間に譲位され即位します!
長慶天皇は 北朝(室町幕府)に対する強硬派の人物で南朝内部には路線対立が存在してたみたいです!!
後亀山の即位後に室町幕府との和平交渉が再開されてるから
後亀山の即位には和平派の後ろ盾があったんでしょうね…それじゃないと…
室町幕府3代将軍 足利義満の和平に応じ1392年10月5日には帰京するんです!
後亀山は北朝の 後小松天皇に 『三種の神器』を譲り渡しその後退位して上皇となるんです!
退位後は出家して隠遁してたけど 1410年に突然吉野へ出奔しちゃうんですw
1416年室町幕府は政治利用される可能性もあったと思われる後亀山に対し説得を試みて
その年の9月には嵯峨大覚寺に戻ってます… プチ(?)家出?
その後何事もないまま1424年4月12日に崩御しちゃいました……享年77歳……
南北朝合体の和平条件には皇統を 持明院統(北朝)と 大覚寺統(南朝)から交互に
天皇を出す 両統迭立があったんだけど後亀山出奔中の1424年北朝 称光天皇が即位して
反故にされ 皇統は北朝後小松天皇の血統に統一されちゃうんです!
後亀山出奔の理由は経済的困窮とも言われ室町幕府に対する抗議とも言われてます…
室町幕府の後亀山ら南朝皇室や遺臣に対する扱いは……後略……ぁは……
1414年に4年前に京都を出奔して吉野に潜行してた後亀山とその皇子 小倉宮実仁親王を支持して
伊勢国司の 北畠満雅が挙兵したけど室町幕府の討伐を受け降伏しちゃいます…
後亀山は2年後に帰京します…後亀山の死から4年後の1428年に嗣子のなかった称光天皇が
同じく北朝の流れである伏見宮家から 彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとしたのが切欠で
北畠満雅は再び 小倉宮聖承(後亀山の皇子恒敦親王の王子)を担いで伊勢で挙兵するんだけど
室町幕府軍と戦って敗死しちゃいます…
この事件を初め応仁の乱に至る迄南朝の子孫は反幕勢力に担がれ断続的に活動を続けたんです!
南朝の子孫は “後南朝”と呼ばれるけど次第に勢力を失ってくんですw
応仁の乱において 南帝王(南天皇の遺児・信雅王)が山名宗全により洛中の西陣に迎えられますw
これを受けて 「西陣南帝」と呼ばれてたんですけど…
この記録を最後に南朝系の人物は歴史上に全く現れなくなっちゃうんですよ!!
でもその後も民間で後南朝の伝説や伝承は残り太平洋戦争後の開放的気分の中で
「熊沢天皇」こと熊沢寛道など自らを正統な天皇の継承者と称する 自称天皇達が現れたと時
その多くは 1911年に明治天皇の裁断によって南朝が正統とされた事を受けて
後南朝の子孫と主張してたんですよ!!
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よくお調べですね。色々教えていただければ有難いが、コロコロと学説が変わり後南朝は分かりにくい。私は先祖、後村上男系長慶玉川宮系と言われて笑いましたが。いえ行き詰ってニセモノウソツキ呼ばわりされたくもないんで。もう南朝の男系子孫は誰も残らないでいいのではと思う日々です
2006/4/4(火) 午前 2:31 [ wfe*1* ]
私の住む所は南朝の中四国最大の拠点でキチンと公式に証明されているのは私の祖父母を結婚させた新田一門史に乗る大井新居田氏と尊真親王陵を祭る寺とそれと付いた八幡宮、そして私の祖父が迎えられ、父が住職を務めた楠木正儀の子孫井手氏の建てたそこから100メートルの寺、母方の大叔父連中が南朝系北畠系篠原、土居、得能というのはキチンと学術証明されてるが後南朝宮座敷跡もあってもそれが戦国で焼失して子孫がどうなったかさえ分かりません。口伝しかない。
2006/4/4(火) 午前 11:07 [ wfe*1* ]
後南朝で皇子達を担いで逃げてきた公家や武家の子孫が残り、それは証明されているのに肝心の皇子達の子孫は一人も残らず証明も出来ない。私も理解しかねる。中世は特にまとまった記録が太平記と芳蕨乱史位でこれも口伝の覚え書き。能や狂言に残る天台本覚思想口伝文化主義隆盛の時代というのもありますが。
2006/4/4(火) 午前 11:14 [ wfe*1* ]
ご訪問&コメントありがとーございます!!由緒正しき出自をお持ちですね!動乱期はみんな自分達の出自は『言った者勝ち』的なものもありましたし…生きる事に必死で更に『勝てば官軍』的発想もあり文献として残す余裕等が無かったんでしょうね…これからも宜しくお願いしまーすw
2006/4/4(火) 午前 11:24
ご訪問ありがとうございました!の足跡ペタペタに参りました。 ところで昔持っていた資料にこんな記事があったような記憶があったので書き込みです。(今はもう手元に無いのでうろ覚えですが・・・。) 後南朝の子孫に長らく宮号・親王号を称していた家が津山藩森家の領内にあったそうですが、江戸期・由比正雪の慶安事件の際に連座して称号を没収されて普通の民家に格下げされたそうです。由比正雪自身も楠木正儀の子孫と称していた事から考えると、正雪はこの家を南朝の正統として担ぎ出す心つもりだったのかもしれませんね。
2006/8/19(土) 午前 0:24 [ 羽生田 伊兵衛 ]