『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

今川家

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今川 義元

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今川 義元は駿河今川家9代目当主

駿河国(静岡県中部)の守護大名であり戦国大名

永正16年(1519年)に7代目今川氏親正室中御門宣胤の娘(寿桂尼)の5男として誕生w
幼名は芳菊丸で正室は武田信虎の娘サン(定恵院)
嫡子は10代目今川氏真で娘は武田義信の正室となってます!!

「海道一の弓取り」の異名を持ち領国経営と外征に才能を発揮したんです!!

織田信長がメインとなる桶狭間の戦いの“敗戦の将”として有名ですよね…

戦国大名は数多くいるけどまるこが唯一大好きな武将なんです!

生まれた時既に同母兄で8代目氏輝がいたんで4才で仏門に出されて臨済宗に入門して
梅岳承芳と称し教育係につけられた今川一族出身の禅僧太原雪斎と共に京都で五山に学びますw
1536年兄氏輝が急死したんで駿河に戻り異母兄で同じく出家してた玄広恵探との間で
家督争いが起きるけど雪斎の尽力でこの争いに勝利するんですよ!
この『花倉の乱』と呼ばれる家督争いを経て還俗して
今川氏第9代駿河守護となり今川治部大輔義元と称すんです!!官位は従四位下です!!
家督を継いですぐに甲斐守護武田信虎の娘(定恵院)と結婚し甲斐(山梨県)の武田氏と結びますw
なんで反って旧来の縁戚であった伊豆国・相模(神奈川県西南部)を領する北条氏と仲違いし
北条氏綱・氏康父子と駿河東部で戦い一時領土の一部を奪われるけど
1545年関東管領上杉憲政と手を結んだ事で北条軍を撃破するんですよ!
1551年には興国寺城を奪われたけど奪還し黄瀬川を今川と北条の国境とする事にしましたw
西方の尾張では織田信秀の進出により圧迫を受けた西三河の松平氏の帰順を受けて
松平広忠嫡子竹千代(のちの徳川家康)を人質として迎え入れようとします!
でもその護送を請け負った三河田原城(愛知県田原市)の国人領主戸田康光が裏切って
今川へ護送中の竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまっちゃうんです!
これは前年に義元自身が戸田一族である戸田宣成と戸田吉光を滅ぼしたんで
これに憤った戸田宗家当主だった康光が反乱を起こしたものだったんです!
逆に怒った義元は戸田宗家をも滅ぼしてその居城であった田原城に朝比奈氏を入れたんですw
竹千代の織田方護送の後も今川に恭順してた1549年松平広忠が死んじゃうと
松平氏の離反を防ぐため織田方の三河安祥城(愛知県安城市)を攻略し

織田信秀庶長子の城将織田信広を捕らえ人質交換で竹千代を奪還する事にしたんですw

これにより松平氏所領とその支配下にあった三河国人領主を直接支配下に組み入れ
駿河・遠江・三河3ヶ国に跨る勢力を築き上げ「海道一の弓取り」等と称されたんです!!
1554年嫡子氏真に北条氏康の娘(後の早川殿)を縁組みし武田氏・北条氏と互いに
婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)を結成したんですよ!
これにより東の憂いを断つと1551年信秀の死を受け動揺する織田氏に揺さぶりをかけて
尾張東部の知多郡・愛知郡に勢力を延ばし始めるんです……
1560年三河守に遷任しちゃいます!!
この年義元は2万5千の大軍を率いて尾張への侵攻を開始します!!!
この出兵について上洛説もあるけど2万5千程度では当時の今川家の軍事力を考えると
精々三河と尾張の攻略のみって意見が強いんです!
破竹の勢いで知多郡大高城(名古屋市緑区大高)周辺の諸砦を次々と落とすけど
永禄3年5月19日(1560年6月12日)彼自身の率いる本軍は大高城に向かう途上に
田楽狭間(現在の豊明市)で休息中織田信長の襲撃を受け義元は戦死しちゃいます…
これが世に言う「桶狭間の戦い」なんですよ……享年42歳……
法名は『天澤寺秀峯哲公』なんです…
義元の遺骸は首の無いまま家臣達によって国元に運ばれる途中で東三河で追撃にあい
一色城内の大聖寺境内(豊川市牛久保町)に亡骸を葬ったんです!
一方義元の首はその後信長から返され駿府天沢寺(静岡市 廃寺)に葬られた後に臨済寺に移されます…

義元討死によって三河で松平元康が再び自立し今川氏は衰退し始めるんです…
義元の後を継いだ嫡子氏真はこの8年後に武田信玄によって駿河を追われることになるんです…
義元は寸胴短足で馬に乗るのが出来なかったんで合戦の時も輿に乗り移動したと言われるけど
その記述がある資料は江戸時代中期に書かれた物で信憑性は極めて低いんです!!
また信長家臣太田牛一が記した信長公記には桶狭間山から退却する義元が
馬に乗ってたという事が書かれてあるんですよ!!
また義元が輿に乗ってたのは足利将軍家から特別に認められた栄誉(今川氏は足利氏一門)として
輿に乗れたのであって寸胴で足が短く馬に乗る事が出来なかったんじゃなかったんですw
公家文化に精通し戦乱で荒廃した京都を逃れた公家達を保護してたんですよ…
でも「お歯黒をつけ置眉や薄化粧をする」という話は後世の作話だって言う説もあります!!
また例え事実であってもそれは家格の高さを示すものであって弱々しい象徴じゃないんですw

『荒々しい武勇だけじゃなくて雅な感じぃがまるこは大好きですね!!』

閉じる コメント(10)

こんばんは。私も今川義元の出兵には上洛ではなく、 三河と尾張を一気に平らげてしまおう という意図があったのだと 思っています。今川義元は桶狭間で敗れたために、 今までの功績が全て消し飛んでしまっている感が否めません。

2006/8/29(火) 午後 11:12 [ ash*kag*1*75 ]

義元公はちょうど厄年だったんですよね…大国ゆえの油断があったんでしょうね…天下に号令してほしかったですw

2006/8/30(水) 午前 0:25 まるこ

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まるこさん、はじめまして政宗です。
今川義元は上記の絵からもわかるように、かなりの武将です。
私の好きな伊達政宗のかなう人物では無いでしょう。あの武田信玄
も一目置いた人物です。私は十分評価しています。
まるこさん、これからも宜しくお願いします。

2008/8/9(土) 午後 9:57 [ 【独 眼 竜 政 宗】 ]

温かいお言葉有難うございますw義元公もお喜びの事と思います!伊達政宗公もかなりの人物です!!これからも宜しくお願い致しますw

2008/8/11(月) 午前 8:25 まるこ

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いいや、今川義元公はもっと評価が上がるべき人物です。
彼の国造りが、のちの徳川幕府の基本になっています。
徳川家康も今川義元公を認めていた証拠です。

2008/8/11(月) 午前 11:21 [ 【独 眼 竜 政 宗】 ]

本当にそうですよね!!ぜひ映画か大河あたりで取り上げて欲しいですね!ちなみに…息子の氏真クンも以外と一押しですw

2008/8/12(火) 午前 8:26 まるこ

まるこさん、上記の今川義元公の肖像画はとても迫力ありますね。

彼は、戦国の七雄の一人で戦国武将としてかなりの実力者で

有ったことは言えますね。もっと評価する必要があると思いますね。

2008/9/8(月) 午前 9:46 [伊 達 政 宗]

やはり歴史は基本的に「勝者」によって作られるって事なんでしょうね…本当に再評価要です!

2008/9/9(火) 午後 8:00 まるこ

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漫画の桶狭間戦記は最高です。TBポチ!

2009/10/1(木) 午前 1:48 熱田北条

読んだ事がないので今度探して拝見させて頂きます!TB有難うございましたw

2009/10/1(木) 午後 11:44 まるこ

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