天草四郎は江戸時代初期の切利支丹で農民反乱『島原の乱』の指導者とされてる人物元和7年(1621年)母の実家で現在の熊本県上天草市大矢野島で産まれました!本名は益田四郎時貞と言い父は小西行長の遺臣で祐筆を務めたとされる益田甚兵衛好次w 本名の名前部分と併せて“天草四郎時貞”と呼ばれるのが一般的です!!洗礼名はジェロニモw旧小西家臣やキリシタンの間で救世主として擁立され神格化された人物とされ様々な奇跡を起こした伝説や天草四郎が豊臣秀頼の落胤だって風説も広められたんです! 島原の乱では十字架を掲げて戦闘を指揮したと言われてます! 過酷な年貢の取立と種々の拷問に耐えかねた島原の領民が武士身分から百姓身分に転じて
地域の指導的な立場に立ってた旧有馬家臣の下に組織化された一揆勢が密かに反乱計画を立てて 1637年10月15日代官林兵左衛門を殺害しちゃうんですよ…ここに島原の乱が勃発!!!でもこの一揆は島原半島雲仙地溝帯以南の南目地域の組織化には成功してここに住む領民達は反乱に賛否に関らず強制的に反乱軍に組み込まれたんだけど 北側の北目地域の組織化には失敗し北目の領民の指導者層は雲仙地溝帯の断層群や 特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として一揆加担を強要する反乱軍の追い落としに 成功し反乱に巻き込まれて幕府軍による虐殺の憂き目に遭う事を免れたんです! 肥後天草でもこれに呼応して領民が一揆を蜂起するんです…天草の一揆軍は総大将として宗教的カリスマ性を持つ当時14歳の少年天草四郎を担ぎ出し富岡城や本渡城等を攻撃し富岡城代三宅藤兵衛重利(明智秀満の子)を討ち取ります! 富岡城は北丸が陥落し落城寸前迄追い詰められるけど落城寸前に九州諸藩の援軍が到着したんで 一揆軍は後詰の攻撃を受けるのを不利を悟り撤退するんです… 有明海を渡って島原半島に移動し島原の一揆勢と合流して島原城に押し寄せるんだけど 堅牢な防備に後詰攻撃を避け島原旧主有馬家居城だった廃城『原城址』に篭城するんです!! 「細川家記」「天草島鏡」など同時代の記録は全て反乱の原因を年貢の過剰取立だと書いてるけど 領主松倉勝家は自らの失政を認めず反乱を起こした一揆が キリシタン信仰を結束の核としてた事をもって反抗的なキリシタンの暴動と主張するんです!! 当時領内での一揆は親藩・譜代・外様問わず改易・お家断絶となっちゃうんですから!!幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実としたんで『島原の乱=キリシタンの反乱』という一面的な見方が定着しちゃうんです… でも実際は反乱終結後に松倉勝家が悪政を責められて打ち首になっちゃいます…
反乱の発生を知った幕府は上使として御書院番頭(将軍親衛隊隊長)板倉重昌を派遣します!また寺沢堅高も失政を咎められ減封になってんで幕府自身が反乱の原因をよく理解してたんですよw でもそれを認めると松倉・寺沢両家に島原や天草を任せた幕府の失政を認める事になっちゃうんで 幕府の公式見解もまたこの反乱は『キリシタン反乱』というものだったんです! 板倉重昌は城攻めの常道として長期包囲を行おうとするけど九州諸大名の統制が取れず 九州諸大名と幕命との間で板挟みになって悩んじゃいます… 更に戦況の膠着化により幕府から2人目の上使筆頭老中松平信綱が派遣される事になって 超焦った板倉重昌自身は1638年1月強引な総攻撃を行い討ち死にしちゃうんですよ…松平信綱は初めから強攻策を諦め兵糧攻めを取りオランダ船デ・ライプ号に依頼し艦砲射撃を行い更に陸揚げした船砲5門を城内に撃ち込んで一揆勢を弱体化させ落城に持ち込みます… 最終的に幕府軍の攻撃とその後の処刑で老若男女3万7千人が虐殺されちゃうんです…唯一生き残ったのは内通者だった山田右衛門作その人ひとりだったんです…寛永15年2月28日(1638年4月12日)幕府軍の原城総攻撃により天草四郎は討死…その首は長崎へ送られ原城址大手門前で晒されたんです…享年16歳… 現在原城址には天草四郎時貞の銅像があります… また後年民家の石垣から発見された四郎の母が建立したと思われる墓石も立ってるんですよ! 天草四郎時貞の豊臣秀頼落胤説は馬印が豊臣秀吉のと同じ瓢箪だった事等から大坂夏の陣において死去した秀頼が加藤清正の援助の元で落城寸前の大坂城から脱出して遠路九州へ逃れたとする論拠で当時まだ密かにあった豊臣家権威の糾合を幕府が同時に図ったとも考えられてるんですよ… |
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きゃーやっぱり戦争においては情報戦が大事ですねー!訓練してない寄せ集めの兵の場合、団結して戦うのが常道なのに、内通がいちゃダメですよね!!幕府はオランダ船を借りて、外交的な見返りは要求されなかったんでしょうか?
2006/1/10(火) 午後 11:01 [ ojo**no3 ]
オランダ君はいっぱい銀を持ってきましたとさ…東は金で西は銀が主流だったみたいだし…それに基本的に切利支丹の後ろ盾と言われるスペインの影響が日本に及ぶ事をオランダ自身が嫌ったんだと思うよ!!だから以外とオランダは反乱鎮圧援助に積極的だったのかもw
2006/1/11(水) 午前 0:55
天草四郎って、やっぱり美少年なイメージだよねぇ。それにしても、どうして、ジェロニモ・・・・ラストオブモヒカンみたいじゃないか(笑)
2006/1/11(水) 午前 10:48
実際はどーだったんですかねぇ…昔の美少年って細い目で面長…きっと神聖化されてた位だからイメージ先行型で実はブ○○クだったりして!!それが洗礼名に現れたとか!
2006/1/11(水) 午後 11:24
まるこ^^ リクエストに答えてくれて ありがとう♪砲撃に関しては国内のことを外国の力を借りるとは、、、というような批判を乱側からうけ幕府はそうそうに止めた記憶があります。るびは四郎さまを美少年と信じてる♪けどね〜〜〜
2006/1/13(金) 午後 0:12 [ るびるび♪ ]
喜んでくれて有難う!!またリクエストあったら言ってねーwこの乱は長引くといろんなとこから徳川幕藩体制の解れが出て来ちゃうから早期鎮圧に必死だったんだろーね・・・オランダ君も実力見せるいーぃ機会だったかもね!!
2006/1/14(土) 午前 1:08
魔界転生ですね。
2006/3/21(火) 午後 2:03 [ - ]
そーです…沢田研二じゃなくて窪塚洋介です……?
2006/3/21(火) 午後 11:42
天草四郎の洗礼名は、世界遺産の聖ジェロニモス修道院の名にもなっている、聖ジェロニモスから来ているのではないでしょうか。あとは、ヒエロニムスかなぁ?私も、「ジェロニモ」と聞くとアパッチ族の方を思い出しますので、昔から不思議でした。
2006/8/11(金) 午後 10:17 [ ken*aro*1*077* ]
ちなみに、原城の砲撃は、オランダ人にとって迷惑だったようです。商館長の日記に、貿易を少しでも有利にするためには仕方が無いような記述があるそうです。
2006/8/11(金) 午後 10:20 [ ken*aro*1*077* ]
やっぱりアパッチじゃなかったんですね(笑)これって日本人の大半が持つ先入観のひとつですよねオランダ船の艦砲射撃は諸大名からもかなり評判が悪かったんですよね…
2006/8/11(金) 午後 11:22