竹中重固は幕末の交代寄合(大身旗本)戦国時代に豊臣秀吉に仕えた軍師竹中半兵衛重治の嫡流子孫ですよ!!竹中半兵衛重治から数えて14代目の当主ですw文政11年(1828年)竹中家分家竹中彦八郎元幸の長男として誕生します!!父元幸死後に竹中家分家の家督を相続したけど本家交代寄合竹中重明の養子となります!! 官位は従五位下・遠江守(後に丹後守)です!! 元治元年(1864年)に陸軍奉行に就任し翌年からは若年寄を兼任してるんですよ! 慶応4年(1868年)1月鳥羽・伏見の戦いでは会津藩軍を率いて京へ進撃しようします!! でも……激戦の末に官軍に敗れちゃったんで免職の上で登城禁止となってます…… 純忠隊を結成し彰義隊と行動を共にするけど5月15日の官軍攻撃により壊滅します…… 仙台で榎本武揚と一緒に箱館へ向かい蝦夷共和国では海陸裁判所頭取となるんですよ!! 明治2年(1869年)箱館戦争終結前に外国船で東京へ向うけどもう戦う術もなかったんです… 結局は明治2年(1869年)5月28日養父重明の薦めで箱館で新政府軍に投降しちゃいます… その後は除族のうえ領地を没収され家禄を失って没落します…後に養父重明預りとなり明治4年(1871年)養父重明が北海道に入植する際一緒に同道!!明治5年(1872年)士族の困窮を憂い北海道殖産事業の建白書を新政府に提出しますw 明治6年(1873年)一切の罪を許され東京府に召還され新政府に出仕するんですよ!! 明治8年(1875年)には辞職しちゃうんですよ…… その後は実弟竹中元賀サンが経営する「蓬英社」に入社し殖産事業に尽力したんです!
明治24年(1891年)東京にて享年63歳で死去します…菩提寺は高輪泉岳寺です…竹中家は竹中半兵衛重治の嫡子重門が1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで当初西軍に属して大山城の石川氏を援助するけど井伊直政の仲立ちにより東軍に加わるんですよ!!そんで9月19日には伊吹山中で小西行長を捕らえる功を挙げて関ヶ原の地が竹中家の領地だった事も合わせて美濃国岩出5千石を安堵されたんですよ!さらに寛永2年(1625年)には美濃国不破や河内国数郡を与えられ6千石に加増されたんですwちなみに豊後国府内藩2万石で後に2代で改易されちゃった竹中家はこの系統じゃなくて竹中半兵衛重治の従弟竹中重利の系統なんですよ!!寛永11年(1634年)2月22日に重利の子重義が密貿易など職務上の不正を訴えられ改易・廃絶となっちゃったんです…… |
幕末の名門旗本
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なるほどぉ、半兵衛の嫡流の子孫は、実質的には現代では途絶えているわけですね。函館まで戦ったってことは、最後の最後まで頑張ったのに、残念なことですね。
2006/6/7(水) 午後 11:37 [ ユウ ]
正直榎本武揚や大鳥圭介・永井尚志らと一緒に箱館から帰って来て頑張って欲しかったです!でも知らないとこで絶対に頑張ってたと思います!!
2006/6/7(水) 午後 11:46
トラバ有難うございます。竹中重固という人は、最期まで徳川幕府に殉じた人だったようですね。安政の大獄での功績が彼の人生の幕開けだったように感じます。
2006/6/21(水) 午後 11:48
まるこは北海道人なんで竹中半兵衛の嫡流子孫が北海道に入植してたってのがうれしいですねw
2006/6/22(木) 午前 0:35
大政奉還のあといったん大坂に引き揚げていた旧幕府軍が、京都へ再び進撃するんですが、その時の名分がが陸軍奉行「竹中重門」の護衛。 でも竹中重門はホントニ幕府軍の指揮をとったんですかね。なんか会津藩とか幕府歩兵隊とか新撰組とかが勝手に戦ってたような。まあ薩摩藩に大砲を一発かまされるまでは「撃ってください」といわんばかりの一列縦隊の堂々たる(?)行軍隊形だったらしいですが。 この辺は幕府側から書かれた記録がほとんどなく、よくわかりませんね。
2006/7/9(日) 午後 2:32 [ タイガードラマー ]
実際戦闘に参加したのは一部で旧幕軍は実数で1万5千もいなかったっていいます!!260年もの大平を過ごしていざ戦争ってなってまともに戦える訳がないですよね…その分薩摩や長州の方が多少なり戦い慣れてたんでしょうねw
2006/7/9(日) 午後 11:42