尼子久贇は幕末の志士(水戸藩士)弘化3年(1846年)父水戸藩士尼子長三郎久恒と母神戸信重の女の長男として誕生!!戦国時代に山陰地方に覇を唱えた戦国大名尼子氏の末裔ですよ!!本姓は「源氏」で通称は「久次郎・長蔵」ですw武勇に秀で神発流砲術に長けてて尊皇志士として国事に奔走してるんですよ!! 元治元年(1864年)3月水戸藩の尊皇攘夷派が守旧勢力の諸生派を打倒するため 田丸稲之衛門・藤田小四郎を大将に挙兵しちゃうとこれに呼応するんですよ!! これが「水戸天狗党の乱」のはじまりなんですw 久次郎は高道祖原や水戸の藤柄口にて諸生党と合戦に及ぶんですw 久次郎ら天狗党も頼徳軍を援護して戦ったんですよw
でも久次郎は部田野原の戦いで負傷し元治元年(1864年)10月23日に天狗党の将榊原新左衛門が幕府軍に降伏すると久次郎もこれに従ったんですよ……久次郎は久留里藩に禁固となっちゃうんですよ……元治元年12月17日(1865年1月14日)戦傷のために享年19歳で獄中に亡くなったんです……墓所は茨城県水戸市常磐共有墓地です……位階は贈従五位なんです……尼子氏は宇多天皇を祖とする宇多源氏の家系で佐々木氏の支流京極氏の一族で重臣でもあったんですよ!!佐々木高秀の次男高久の代に「尼子」を称するようになったんですw尼子氏は永く京極氏の分家筋という地位から京極家の重臣として重きをなし京極氏の領地である北近江半国と出雲国のうち詮久が北近江半国をその弟持久が出雲国に住し京極家の領国支配を支えるようになってます!!尼子氏の成長は持久の子守護代尼子清定が山名氏の出雲国侵攻軍を撃退したことによるんですwこれで能美郡奉行職と美保関代官職を与えられ大きな軍事的・経済的基盤を形成する端緒となりますw……でもあくまで清定は京極氏の守護代でその任を忠実に果たしてるんです…… でも清定の子経久が4代目として家督を継承すると経久は出雲国内の荘園を横領したんで主君京極政経に追放されちゃうんですよ!!経久は翌年無頼の徒を率いてわずかな手勢で謀叛し月山富田城を奪取し京極政経を追放して出雲一国を領国化しちゃうんですwこの下克上に対して当初は京極氏の残党が尼子氏に対抗したけど知略に優れる経久の敵ではなかったんです!! 経久の嫡男詮久が遠征中に国人桜井氏を攻めてる最中に陣中にて笛をふいてたところを矢で射殺されちゃう一大事も発生するけど経久の孫晴久が後継となったんです……尼子氏は経久の代に11ケ国の領国支配を固め孫晴久に家督を譲る際には出雲守護職に補任され守護を追放した守護代としての名分から脱することも出来たんです!!でも晴久には経久ほどの才はなく3万もの大軍で安芸国の国人毛利氏を攻めるけど大内義隆軍を率いた陶晴賢と毛利氏の連合軍の前に破れ逃走しちゃいます…… 以降尼子氏は勢力を弱めるんです……程なく晴久は病死し家督を継いだ子義久の代となると大内氏の所領をも吸収した毛利氏に攻められて滅亡しちゃうんです……一族は毛利氏に下ったものや浪人したものなど散り散りとなってます……そのうちの一族が水戸徳川家に仕官し代々水戸藩に仕えてたんですよ!! |
名家のその後(幕末)
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尼子の血脈が絶えずに存続してたのは嬉しいです。
2006/7/31(月) 午後 1:34 [ 乱丸 ]
正直尼子氏は大名として存続してほしかったですねw
2006/7/31(月) 午後 10:18