筒井政憲は幕末の大身旗本
戦国時代に「洞ヶ峠」の罵声を後世に残した筒井順慶の末裔ですよ!!
安永6年(1778年)旗本久世三四郎広景の次男として誕生します!!
寛政10年(1798年)旗本筒井正盈の養子となり後に戦国大名の末裔筒井氏を継ぎますw
官位は従五位下・伊賀守⇒和泉守⇒紀伊守⇒肥前守なんですよ!
柴野栗山に学問を学び昌平坂学問所で頭角をあらわしたんです!!
文化12年(1815年)目付⇒長崎奉行をつとめますw
文政4年(1821年)からは南町奉行を20年間務めます!!
天保年間(1830年〜43年)は政憲にとって不遇な期間でした……
但馬国出石藩の御家騒動「仙石騒動」に巻き込まれ南町奉行を免職され西丸留守居役に左遷されちゃい
さらに弘化2年(1845年)には南町奉行在任中の与力仁杉五郎左衛門の市中米買付に関係する不正
が暴露されて当時の責任者として責任を問われ留守居役を免ぜられ小普請に左遷されます…
でも学問に優れた政憲はこの間も“御儒役”として林大学頭に代わり将軍に進講したんですw
弘化4年(1847年)には老中首座阿部正弘の命で西丸留守居役に復職したんですよw
嘉永6年(1853年)7月にはロシアのプチャーチンが国書を携えて長崎に来航します!
そんでプチャーチンは樺太・千島の日露国境確定と交易開始の要望を幕府に呈したんです!!
幕府は政憲と公事方勘定奉行川路聖謨を交渉全権代表に任命して長崎に派遣しますw
「西丸留守居役」じゃ重みにかけるんで「儒役」はそのまま幕府内席次を「大目付格」に上げます!!
でも長崎での日露交渉は不調に終わりロシア側も船舶が故障したりクリミヤ戦争発生で
一時日本を離れたんだけど安政元年(1854年)再び下田に姿を見せるんです……
幕府は再び交渉役を長崎同様に政憲と聖謨とし補佐役として下田奉行伊沢美作守政義・目付松本十郎兵衛・勘定吟味役村垣淡路守定行・儒者古賀謹一郎の4人をつけるんですw
幕府も今回は本気で前回の2人じゃ役不足だったんですよね…
安政2年(1855年)12月12日苦労の甲斐あってついに下田長楽寺で日露和親条約が締結!
交渉は無事妥結し開港関係は日米和親条約を骨子とし千島列島の国境を択捉島・ウルップ島(得撫島)間と定めてロシア船の下田・箱館(現函館)への寄港・薪水食糧の発売を決めたんです!!
日本とロシアの間にある領有権問題(北方領土問題)の日本側の主張はここに根拠があるんですw
ちなみに樺太では国境をきめず両国人の雑居地としたんです!!
安政6年(1859年)に享年82歳で死去してます…
墓は東京都新宿区西新宿7−12−5にある常圓寺にあります…
筒井氏は大神神社の神官大神氏の一族と言われてますw筒井氏は大和国添下郡筒井の土豪として大和に勢力を持ってたけど鎌倉時代以降大和国守護は興福寺が務めてます!!戦国時代に入ると興福寺の勢力が衰退し大和の国人筒井氏や越智氏の勢力が台頭してくるんですよw1467年の応仁の乱では河内国の守護大名畠山氏の抗争に巻き込まれて大和国内は混乱!!そんな中で筒井氏の当主順興は英明で大和国人衆の一人として興福寺に属しながら宿敵越智氏を討ち滅ぼして勢力を拡大し筒井氏を大和の戦国大名としてのし上げたんです!!1535年に順興は死去し嫡男順昭が後を継ぎます!!順昭も英明で信貴山城を本拠にして木沢長政と戦い遂には大和を統一し河内にもその勢力を伸ばし筒井氏の全盛期を築き上げました!
でも順昭は1550年に28歳の若さで死去し嫡男でわずか2歳で後に「洞ヶ峠」の罵声を後世に残した「筒井順慶」が後を継ぐこととなるんですよ!!でも順慶は1584年に36歳の若さで死去!!嗣子が無いため後を養嗣子定次が継ぎます……でも……これまでの筒井氏当主の中では暗愚な人物で1608年幕命により改易され身柄は鳥居忠政預かりとされちゃうんですよ……ちなみに改易の理由は定次が酒色に溺れて政務を顧みなかったとかキリシタンだったことなどのほかに筒井氏のような外様大名を畿内に置いておくのは危険と考えた幕府の有力外様大名取り潰し政策の一環とも伝えられてるんです……そして1615年定次は大坂冬の陣で内通したから幕命により息子順定とともに自害を命じられちゃうんです……
筒井順慶のもう1人の養子筒井定慶は家康の協力もあり定次改易後に筒井家を相続し大和郡山城1万石を領したけど元和元年(1615年)4月に大阪夏の陣が勃発し豊臣方の大野治房軍が来襲し定慶は敵わずと見て城を捨ててその後逃亡を恥じての切腹しちゃうんですよ……
その子孫が1千石の旗本となり「筒井政憲」はその末裔なんですよ!!
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筒井順慶は日和見で有名ですけどその末裔は積極的だったんですね!
2006/6/12(月) 午前 2:43 [ max_max55 ]
筒井政憲がもー少し長生きしてるかもー少し若かったら絶対に明治維新後には外務担当の重職に就いてたでしょうね…戌辰戦争じゃ日和見は許されなかったんでしょうね…大名ならまだしも幕臣なら…
2006/6/12(月) 午後 0:57
順慶公の汚名を晴らすべく記事書きました。(TBさせてね!)定次はどうやらホントに無能な当主だったようで、島左近も見限っちゃってますもんね。でも筒井氏の末裔が日露和親条約の締結に尽力していたとは。。。
2006/6/16(金) 午前 3:08
TBありがとーございますw筒井定次は典型的な2代目の坊チャンだったんでしょうね……でも筒井氏は大名として明治維新を迎えてほしかったですねw
2006/6/16(金) 午後 11:51
筒井順慶というと、芳しくないイメージが先行していますが、実際すばやく信長に属して大和の所領を守り抜いたところを考えると、なかなか時代を見る目が合ったと思うんですが・・・光秀に同心しなかった点では細川藤孝や中川清秀とかも同じですからねえ
2006/7/18(火) 午前 11:47 [ jir*_*abu*o_*006 ]
順慶公のイメージアップにゆーくんままサンとがんがってますw
2006/7/18(火) 午後 2:23