大友義路は幕末の高家旗本(大身旗本)戦国時代に「九州北部6ケ国を支配した」とキリシタン大名であった大友宗麟の嫡流子孫ですよ!!いつ生まれたかわかんないんだけど関宿藩主一門久世綏之の息子として誕生します!!通称は「丹次郎」で官位は従五位下侍従・豊後守なんですよw 実父久世綏之は関宿藩主久世広誉の嫡子だったんだけど藩主になってないんです… 義路は高家旗本大友義智の養子となるんですよw 文政4年(1821年)12月15日第11代将軍徳川家斉に御目見してますw 文政7年(1824年)7月27日に家督を相続します!! 天保13年(1842年)12月8日には高家職に就き従五位下侍従・豊後守に叙任しますw 嘉永元年(1848年)11月16日に辞職しちゃうんです!
嘉永2年2月5日(1849年2月27日)に死去してます…家督は嫡子義敬が継いでます!!鎌倉時代初期に初代能直が母(利根局)方の生家の波多野経家の相模国大友荘を有してたことから大友能直と称したのが大友家の始まりなんです!!母利根局は元源頼朝の妾でありまた養父の中原親能が頼朝の側近だったんで頼朝の寵愛を受け後の大友氏の興隆の因となるんです!!もし頼朝の個人的な寵愛がなかったら大友能直も大友家も無名だったと思うんですよ…母が頼朝の妾だったんで能直は頼朝の御落胤と伝えられたけど落胤説は現在では島津忠久の場合と同じく「偽源氏」の作り話として否定されてます!! 戦国時代には大友義鎮(大友宗麟)が筑前から大内家・毛利家の勢力を追い大友家の勢力を伸ばし一時期は豊後を直轄支配地として豊前・筑前・筑後・肥前・肥後を勢力に置いたんですよ!!でも島津家の侵攻により大友家は滅亡に頻し義鎮は上洛して豊臣秀吉に支援を乞うことで秀吉の九州征伐が開始されたんですよwその後豊後一国の安堵を受けてますw その跡を継いだ大友義統は文禄の役における敵前逃亡を咎められ文禄2年(1593年)に改易されちゃうんですよ…そして義統の身柄は毛利輝元に預けられたんです!!そんで義統は慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで西軍の毛利家を頼り黒田家や細川家の領地となってた豊後の奪回を計るけど石垣原の戦いで黒田孝高(如水)の軍に敗れちゃうんです… 義統の嫡子義乗は義統の没後に旗本として取り立てられるけどその子義親の代になって無嗣のため断絶しちゃうんですよ…義乗の弟正照は肥後で松野正照と称してたけどその子義孝をもって大友家を再興し江戸時代に大身旗本・高家として存続したんです!! |
幕末の名門旗本
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大友宗麟の家系も存続してたんですね!
2006/8/3(木) 午前 1:18 [ max_max55 ]
そーなんです!!一族の興亡はいろいろあっても…大名でも旗本でも存続したもん勝ちですねw
2006/8/3(木) 午後 11:21
こんにちは かなり調べてますが 島津藩に人質になり 明治時代にやっと 大分県に帰れた私の先祖も 旗本でした。 高家とは 違います。全く違う名字です。
2011/11/3(木) 午前 1:49 [ オオイタッコ ]
おはようございます ニックネームは オオイタッコと申します。 確かに私が 聞いている分には男子系は天皇の宮の女房にいった長女の計らいで 旗本に江戸時代に復興したのですが…人質にとられた奈多夫人の子ではない女子がひとり側室として嫁いでおります。島津藩から戦しかけられ御家が なくなった時にお腹に赤ちゃんがおり 島津藩の当主が 本来実家に 返すべき姫の身を案じてくれました。
そこで 時代の流れに逆らい 姫を島津藩内で なくなったことにして 匿ってくれ…産まれたのは男子でした。
島津藩当主は 島津の家紋をくれて保護してくれたので 血は 受け継がれ 明治に入るとき 改名して 臼杵市に帰りました。
それが私のひいお爺ちゃんです。次男の孫に私はなります。
ひいお爺ちゃんは西南戦争で泣くなり お爺ちゃん達は大変苦労しました。
この歴史ブームのお陰で 臼杵市の墓を綺麗にしてくれている方がいるようで…有難いことです。
2011/11/3(木) 午前 7:09 [ オオイタッコ ]