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目付とか外国奉行等の要職を務めてます!! 文久2年(1862年)8月から元治元年(1864年)7月に掛けて京都町奉行を務めます! その間京都守護職松平容保と協力して京都の治安維持に務めたんですよw でも……指揮下の同心達の統制に苦労したみたいなんですよ…… 厳しい道中に疲労困憊してまた自分達が「主」と仰ぐ徳川慶喜に敵と見なされちゃって 意気消沈しちゃってる水戸天狗党は加賀藩兵隊長永原甚七郎を通じて陳情書を提出し 徳川慶喜の手許に渡そうとしたんですよ!! でも……水戸天狗党の戦意乏しきを侮った具挙は追討軍に対して 「彼らは既に武器を持って反乱を起こしてるんだ!!今更釈明など受け取れない」と言い放って これを遮り水戸天狗党に降伏を強要したんですよー!! 更に加賀藩の周旋を批判して水戸天狗党の殲滅を主張するんですよ!! そんで戦後処理では厳しい処罰を主張するんです! 降伏7百〜8百名の内350名が斬首され残りは流罪・遠島という厳しい処罰が下されます!! 慶応3年(1867年)末「薩摩藩邸焼き討ち」の成果を携えて大坂城に出向しますw 将軍徳川慶喜に薩摩と長州との開戦を迫ったんで旧幕府軍は京都に向け進撃を開始します!! これが慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いとなったんです!この戦いで具挙は鳥羽方面軍の先頭に立ち朝廷に対し薩長の非を訴える「討薩表」を掲げます!!でも下鳥羽を固める薩摩軍の指揮官椎原小弥太に阻まれちゃうんですよ…… そんで右往左往する内に砲撃を受け狂乱する乗馬もろとも後方に駆け去っちゃうんです…… 以前に水戸天狗党の趣意書を撥ね付けた報いかもしれませんね…… これで“敵前逃亡”のレッテルを張られちゃうんですよ……ちなみに滝川一益も「本能寺の変」後に碓氷峠から本拠地に逃げ帰って“敵前逃亡”してます…やはり滝川氏のDNAなんでしょうか……(笑) その後は淀城で旧幕府軍を指揮するけど敗北しちゃいます…… その責任を問われて免職となって登城禁止になっちゃうんですよ…… その後の消息は全く不明だけど一説では静岡で引退生活を送ってたと言われます……新選組に対しては、非常に協力的だけど敵に対してはやや非情に過ぎる面もあったんです!!ちなみに具挙の子充太郎は伝習隊に所属して第2大隊の小隊長に任命されてます! そんで明治元年(1868年)からの戌辰戦争では関東を転戦する等活躍したんですよw そんでその後は西南戦争で政府軍(別働第二旅団第19中隊)を率いて奮戦し戦死してます…親である具挙に似ない勇将ぶりだったんですよw滝川氏の出自は紀氏の後裔とする説と伴氏の後裔とする説の二つがあるんだけど結局は不明なんです…戦国時代に滝川一益が織田信長に仕え関東管領として活躍するけど「本能寺の変」後は精彩を欠き没落しちゃってます…一益の娘婿武将滝川雄利は最初は僧侶だったけど一益にその才能を見出されて還俗して一益の娘婿として迎えられたんです!!そんで織田信長・織田信雄・豊臣秀吉に仕えたんですよw慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与しちゃって戦後に伊勢国神戸2万石の所領を召し上げられて改易されちゃうんですよ…でもその後に徳川家康に召し出されて常陸国片野藩2万石の所領を与えられ家康の御伽衆の一人となったんです!!雄利の嫡男正利には嗣子が無かったうえ病弱だったんで寛永2年(1625年)に領地2万石のうち1万8千石を幕府に返上して2千石の旗本となりましたw
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幕末の名門旗本
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滝川一益といい、この播磨守具挙といい、最後を全うできなかった感が強いですね(まあ、具挙は仕方ないと思うが)。遁走した挙げ句失脚した点も同じですし・・・
2006/8/29(火) 午前 3:12 [ jir*_*abu*o_*006 ]
滝川一益の家臣が「私たちもいつかは出世して殿のような生活を送ってみたいです」と言うと一益は「鶴は見た目は優美だけどつねに敵に狙われてて落ち着く暇がないから鶴を羨ましがらずに雀を楽しめ」と答えたそーですよw
2006/8/29(火) 午後 10:21
滝川一益は本能寺の変後に忽然と歴史の表舞台から消えましたよね。今更ながら幕末までその血脈が残ってたことに感動です!でも滝川具挙は激昂タイプだったんですね・・・
2006/8/30(水) 午前 9:54 [ 乱丸 ]
滝川三郎四郎!池波正太郎先生の『真田太平記』での勇姿を思い出します!子孫はちゃんと続いていたんですね。
2006/8/30(水) 午後 11:17 [ - ]
そんな簡単に滅亡しないのが滝川氏!!もとは忍者みたいですし…幕末まで続いてたことに感嘆ですw
2006/8/30(水) 午後 11:25