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お母サンは松本藩主松平光年の娘サンで号は「成翁」「子成」「真成」「叟」とかあるんですよ!! 文政5年(1822年)4月に従五位下に叙しますw 文政10年(1827年)4月には侍従に任じられてから右少将・右中将を歴任しますw 嘉永元年(1848年)3月に参議に任じ5月には従三位に叙せられます!! その後は権中納言・右衛門督・検非違使別当を歴任してるんですよ!! 安政5年(1858年)幕府が通商条約締結の勅許を求めてきたときに これに反対する廷臣八十八卿の一人となるんですよ!! 安政6年(1859年)に権大納言を経て万延元年(1860年)議奏となりますw 文久2年(1862年)には国事御用掛となるんですよ!! 文久2年4月13日(1862年5月9日)長州藩士長井雅楽に藩主上京の内旨を伝えます!! 薩摩藩主島津久光ら公武合体運動を支持し長井雅楽の「航海遠略策」に賛同しますw そんで朝廷への建白を促したんで過激な尊皇攘夷派から敵視されちゃいます… 文久3年(1863年)にそんなこんなで議奏を辞職の上で失脚しちゃいます…文久3年(1863年)8月18日の政変で復帰すると薩摩藩と交流を持ちながら討幕派公卿の一人として幕末を立ち回るんですよ! 文久3年(1863年)12月には議奏に復任します! ちなみに薩摩藩への「討幕の密勅」の日付は前日13日になってたんですよ! そんでもって薩摩藩宛は実愛が長州藩宛は中御門經之が書いたと言われてるんですよw でも……同じ日に徳川慶喜が大政奉還をしちゃいます!!慶応3年10月15日(1867年11月10日)に朝廷で承認されたんで政局が混乱!!この6日後には薩長両藩に対し討幕の実行延期の沙汰書が出されたんですよ!! 明治維新後は議定・内国事務総督・刑部卿・教部卿等を歴任してますw 明治2年(1870年)9月維新の功績により賞典禄1千石を永世下賜されますw 明治3年(1871年)に姓を「嵯峨」と改めてます!! 明治13年(1880年)には勲一等旭日大綬章を受けてますw 明治14年(1881年)4月に隠居し息子公勝が後を継いだんですw 明治17年(1884年)7月7日の華族令施行により伯爵に叙されます! でも…「侯爵が欲しい!」……陞爵への凄まじい迄の執念がありました…嵯峨家は代々大臣家だったんで平堂上家と同じ伯爵では我慢ならなかったんですよ!でも…「侯爵が欲しい!」……息子公勝にも陞爵への凄まじい迄の執念がありました…でも…息子公勝の陞爵への理由は実愛と全く違ってたんですよ…それは…伯爵以下は貴族院議員に選挙で選出され歳費と旅費が支給されるんだけど公爵と侯爵は世襲で無給なんですよ!!公爵は金禄公債と合わせ約10万円になるように家門永続資金を 下賜されてたけど侯爵はなかったんで息子公勝を侯爵への爵禄要求へと駆り立てたんです!! 当時巡査の初任給が6円の時代に嵯峨家は年3千円の固定収入だったんで同情の余地は無し!! 明治21年(1888年)1月17日についに息子公勝が侯爵に陞爵してますw明治32年(1899年)7月には高齢により宮中にて杖を許されたんです!!明治42年(1909年)10月20日に東京にて享年90歳で死去します…死去後に明治天皇は棺前に勅使を遣わし御沙汰書を宣読せしめてその功を賞したんです!!墓所は東京都文京区にある麟祥院にあります…
藤原氏北家閑院流三条家の分流で太政大臣三条実重の2男公氏を祖とします!!この正親町三条家からさらに分かれた三条西家も大臣家として存続したんですよw家紋は「正親町連翹」で江戸時代の禄高は355石なんですよ!!ちなみに……清朝最後の皇帝である宣統帝(愛親覚羅溥儀サン)の実弟溥傑サンと結婚し「流転の王妃」とよばれた浩サンは実愛の曾孫なんですよ!! |
幕末の公家サン
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