田丸直允は幕末期の志士(水戸藩士)で天狗党首領村上源氏の名門北畠氏の庶流で「田丸御所」の尊称が継承された一門の末裔w文化2年(1805年)に実父水戸藩士山国共綿と母養父田丸直諒の娘サンの子として誕生w兄に山国喜八郎共昌がいますw 諱は「直允」で幼名は「丑次郎」「安之允」で通称は「稲之衛門」です! 天保6年(1835年)に水戸藩馬廻組となりますw 天保10年(1839年)には藩領検地のため縄奉行となるんですよw これを機に藩政改革の勢力と懇意となったんです!! 天保11年(1840年)には進物番に翌12年(1841年)には大番組となりますw 天保13年(1842年)には田丸家の家督を相続し200石となります! 弘化2年(1845年)使番を兼務し嘉永2年(1849年)11月に書院番組頭となりますw 安政6年(1859年)に水戸藩目付役となるんですよ! 安政7年(1860年)1月には使番に転じてますw 順調に出世街道を歩むんだけど実兄山国共昌の影響もあり尊皇攘夷派になってきます…文久3年(1863年)には水戸町奉行になり尊皇攘夷派重鎮として信頼を集めます!!尊皇攘夷派が筑波山に挙兵しちゃうと尊王派の将の1人として招かれちゃいます!! これに対し水戸藩親幕府勢力の「諸生党」が討伐の兵を挙げると“天狗党の乱”が勃発します…直允らの属する“天狗党”はこれに対し応戦しちゃうんです!命を受けて説得に赴くけど逆に諭されて天狗党に加担する事になっちゃうんですよ! 連合して天狗党鎮圧に乗り出すと天狗党の主力部隊は降参しちゃいます… でも…武田耕雲斎や直允らの一隊はその後も尊皇の志を達すべく京都への上洛を 目指して転戦してったんです!! 下野国⇒陸奥国へと移動し幕府から天狗党討伐を命ぜられた各藩と戦火を交えちゃいます! でも…実際は天狗党の武力に真っ向から挑むだけの兵力がない藩が多かったんです… そんでもって領内の移動を黙認されたり金銭により藩地の通交を遠慮する事もあったんで 天狗党は比較的容易に異動する事が出来たんですよw やがて天狗党は北上し北陸道から京都に向かう事になったんです! やがて越前国に至ると大遠征の中で天狗党一党は疲れ切っちゃってます… 降伏する事にするんです… 慶応元年2月4日(1865年3月1日)幕命で賊将として敦賀で享年61歳で斬刑になります…この時実兄山国喜八郎共昌も享年71歳で斬首になっちゃうんですよ…その首級は塩漬けにされた後で水戸に送られたんです…そんで4月20日(旧暦3月25日)より3日間城下を引回され那珂湊にて晒されちゃって 野捨にされました…墓所は茨城県水戸市松本町常磐共有墓地にあります… 乱が鎮圧されると水戸藩では諸生党が中心に加担者の家族を尽く処刑しました… 次女八重も諸生党によって享年17歳で斬首となってます…そんで17歳とは思えない辞世の句を残してます…『引きつれて 死出の旅路も 花ざかり』保守派によって完全な佐幕派となっちゃった水戸藩は戊辰戦争で衰退して行くんですよ…明治期に従四位が贈位されたんですよ! 天狗党の乱の繋がりで茨城県水戸市と福井県敦賀市は姉妹都市となってるんですよw
田丸氏は村上源氏の名門北畠氏の庶流なんですよ!北畠氏は南北朝時代に南朝方の鎮守府将軍として活躍した北畠顕家の弟で鎮守府将軍北畠顕信が伊勢国司として伊勢一国を支配した事に始まるんですw南北朝が統一されると北畠氏は室町幕府の傘下に入り伊勢国守護職に補任されてます!!田丸氏の起こりは戦国時代初期の伊勢守護北畠政郷の4男顕晴が度合郡田丸城に入り“田丸氏”を称した事に始まりますw以降田丸氏は初代田丸顕晴以下歴代当主により「田丸御所」の尊称が継承され北畠氏の一門の3大将として重きをなしたんですよw |
名家のその後(幕末)
[ リスト ]




水戸藩の場合、人材らしい人材が天狗党の乱までで、あらかた死んでしまったんですよね・・・。結局水戸は時代の流れに乗れず、武田耕雲斎の孫・金次郎などは伊香保で風呂番をして余生を送ったと言いますからね・・・
2006/11/11(土) 午前 2:51 [ jir*_*abu*o_*006 ]
ご無沙汰です。関ヶ原で引き返した田丸直昌の親戚の方でしょうね。。。
2006/11/11(土) 午後 7:01
田丸直昌の親戚の方です…武田耕雲斎の孫金次郎が風呂番ってのは哀しいですよね…
2006/11/27(月) 午後 7:05