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幼名は「里之介」とか「鉄之介」「直之進」なんですよw 元服し家督を継いだ折は「四郎左衛門」を襲名します!! 母方の叔父には戸田忠太夫・安島帯刀とか水戸藩の重臣がいたんですよ! 従弟には戸田銀次郎がいました!他に同母妹・異母兄弟もいたんですよw 天保9年(1838年)水戸藩主徳川斉昭により新設された床机廻に任ぜられます!! 天保12年(1841年)5月に大番組となりますw 弘化元年(1844年)には小納戸役に昇任したんですよw 嘉永3年(1850年)には武芸指南の功で白銀を賜ってます! 安政元年(1854年)家督を継いで「四郎左衛門」を襲名したんですよ! そんで町奉行を拝命し尊皇攘夷派に与する様になったんです… 安政元年(1854年)4月米国船舶の横浜入港時に床机廻を率いて江戸の水戸藩邸を守衛!! 文久元年(1861年)東禅寺事件に際して領内取締不行届きで免職しちゃいます…文久2年(1862年)6月に歩行頭として復活するんです!元治元年(1864年)天狗党の乱が起きた際には水戸藩主徳川慶篤が乱の鎮定のため 支藩である宍戸藩主松平頼徳を目代として派遣したけどこれに尊王派が従軍したんで 水戸城に拠る諸生党が宍戸藩主松平頼徳の入城を拒否しちゃうんです! 親賢は天狗党の総督だった榊原新左衛門の幕下として宍戸藩主頼徳一行に従軍してたけど 水戸城下についた時に入城拒否が発端で『頼徳&天狗党』と『諸生党』との間で 神勢館の乱が起こるけど幕府軍が諸生党に加担したんで頼徳は幕府に降伏します… 天狗党の大将榊原新左衛門も「幕府軍と戦うのは本意ではない」と降伏しこれに従います… 親賢はその後古河藩に預けられたんです… この時父親長は水戸城の東の栗崎村の民家に隠れてたけど諸生党の追手に見つかり切腹して果てたんですよ…享年71歳だったんです…慶応元年(1865年)4月5日(1865年4月29日)に享年51歳で切腹となります…墓地は父親長同様に栃木県水戸市松本町常盤共有墓地です…明治24年(1891年)には贈正五位を受けてるんですよ!
里見八犬伝で有名な安房里見氏当主である里見義成の次男義直の家系に出羽国に移住して勢力を築いた一流があるんですよ!南北朝時代に出羽国成生庄に扶植した里見義景には子がいなくて同じ源義国の家系で足利氏の一門斯波家兼の3男義宗を養子としたんですw里見義宗は家督を継ぐと「天童氏」と称し里見氏の一門を家臣団として編成して勢力を拡大していったんですよ!こうして新田系の家系ながら足利氏の血をひく事となった天童氏は上之山氏・東根氏・鷹巣氏という庶流を領内各地に移住させて支配権を確立してったんです!!南北朝時代から室町時代にかけての出羽国南部は斯波家兼の次男最上兼頼にはじまる最上氏が国人を統合し支配圏を固めてて兼頼実弟の養子入りした天童氏に対しても従属化を求める様になるんです…でも天童氏は斯波氏から養子をとっただけで家系は新田氏の一門であるんで一定の独立を維持してたんですよ!天童氏は延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田・成生家らとともに最上八楯を形成し最上氏や出羽に侵攻をたくらむ伊達氏と対抗していってたんですよ!最上義光が羽州探題として勢力を拡大していくにつれ天童氏にも従属化を求めるけど天童氏がこれに従わなかったんで最上と天童の間で戦さが起こっちゃいます…そんで停戦に及んだ最上義光は天童氏との講和を結び天童氏の娘サンと結婚して縁戚となり油断をさせて天童氏を滅ぼしちゃってその家臣団をも吸収したんですよ… 以後天童氏の一門や配下は最上家臣として最上家の覇道に貢献してゆく事になるんです…宗家「天童氏」の滅亡により最上家臣となった里見一族は最上家の勢力拡大に貢献するけど最上家親の代に御家騒動が勃発し幕府の命により改易しちゃいます…最上家臣だった里見義親は改易で一時松平筑前守に再仕官するけど主筋の山野辺義忠が水戸藩に仕官したのにともない自らも水戸藩に仕官する事となったんです!
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名家のその後(幕末)
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関東・東北の名家の末裔は、水戸藩に仕えていることが多いみたいですね。結城氏しかり、山野辺(最上)氏しかり・・・・。
2006/12/23(土) 午後 5:34 [ jir*_*abu*o_*006 ]
そうですよね!!
2006/12/30(土) 午前 0:21