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通称は「岩之丞」「玄蕃頭」で号は「介堂」っていうんですよ!! 天保12年(1841年)25歳で大身旗本永井尚徳(加納藩永井家の分家)の養子となります!! 嘉永6年(1853年)目付として幕府から登用されますw 安政元年(1854年)には長崎海軍伝習所の総監理として長崎に赴きますw 安政4年(1857年)にそれまでの功績を賞されて江戸に呼び戻されます!! そんで幕臣岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられたんですよ! そんでロシア・イギリス・フランスとの交渉を務め通商条約調印を行なってますw その功績で軍艦奉行に転進したけど直後の将軍後継者争いで徳川慶喜を支持する一橋派を 支持したんで大老井伊直弼の安政の大獄で罷免され失脚してしちゃいます… 文久2年(1862年)に京都町奉行として復帰します! 元治元年(1864年)には大目付となります! 文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」や元治元年(1864年)7月19日の「禁門の変」では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど交渉能力で手腕を大きなカを発揮したんですよw
慶応3年(1867年)には若年寄にまで出世したんですよ!! 慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後は徳川慶喜に従って江戸へ逃げ戻ちゃいます… その後は幕府海軍総裁榎本武揚と共に蝦夷へ向い蝦夷共和国の創設を全面的に支援します! そんで函館奉行となり新政府軍と戦ったんです!! 戊辰戦争で幕府軍が新政府軍に敗れることは知っていたんですよ… だけど最後まで忠誠を尽くして戦った忠臣として高く評価されてるんですよw でも…敗れて榎本と共に自殺しようとしたけど周囲に止められて降伏しました… 明治5年(1872年)新政府に出仕し開拓使御用係・左院小議官を歴任しますw 明治8年(1875年)には元老院権大書記官になってるんですよ!! 明治24年(1891年)7月1日に東京にて享年76歳で死去します…ちなみに養子である永井岩之丞尚忠の娘夏子は明治政府官僚平岡定太郎に嫁いでます!!そんでその孫が「平岡公威」…すなわち「三島由紀夫」のことなんですよw
先祖は長田左衛門尉親政っていうけど長田が源義朝を討ちとった家号なんで徳川家康の命で大江氏となり永井を称したんですよ!!永井氏は重元のとき徳川家康の父広忠に仕えてますw広忠は三河国大浜郷に砦を築き重元に守備させてます!!天正10年(1582年)本能寺の変の後に家康が伊賀越えで伊勢の白子に上陸したとき重元は船を用意して三河の大浜郷の自身の館に迎えたんですよ!!永井氏は大浜郷の領主でもあったみたいなんですよw重元の子直勝は家康に仕え見込まれて嫡男信康の近習を務めてます!!不幸にして信康が亡くなってからはもっぱら旗本として戦場に立ち天正12年(1584年)の長久手の戦いでは秀吉方の将池田恒興を討ちとり味方を勝利に導くとともに一躍勇名を轟かせたんですwその後恒興の次男で家康の娘婿にあたる輝政は直勝と雑談になったときふと「その方の禄はいかほどか?」と尋ねたことがあったんです…直勝が「7千石だ」と答えると輝政は「我が父ともあろう人の首にしては安いものよのう」と冗談まじりにこぼしたという話が伝わってますw秀吉からも直勝は「比いなき勇士よ」と賞賛されてますw |
幕末の名門旗本
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別館の方へ、転載おねがいします・・・(●^o^●)。
2009/11/23(月) 午後 1:56
どうぞお使い下さいませw
2009/11/23(月) 午後 11:36