波多野敬直は明治〜大正期の政治家
戦国時代 織田信長に敵対した丹波の戦国大名波多野氏の末裔なんです!
嘉永3年(1850年)10月10日小城藩士波多野信倚の長男として生まれますw
小城町長や佐賀市長を努めた野口能毅サンは実弟なんですよ!!
藩校「興譲館」に学びますw
慶応3年(1867年)に17歳で藩命により熊本の「木下塾」に入塾しますw
明治6年(1873年)23歳からは大学南校でドイツ語を習うんです!
修業後に司法省に出仕しますw
そんでその後は広島始審裁判所長・司法省参与官・大審院判事を歴任しますw
明治24年(1891年)には大審院判事(現最高裁判所裁判官)となります!
明治33年(1900年)に司法省総務長官兼官房長に就任するんですよ!
明治36年(1903年)第1次桂内閣で司法大臣として初入閣します!!
明治39年(1906年)には貴族院議員(勅選)に推されますw
明治40年(1907年)に57歳の時に男爵に叙されるんですよw
明治44年(1911年)には東宮大夫に就任しますw
大正元年(1912年)には侍従長兼東宮侍従長となりますw
大正3年(1914年)〜大正9年(1920年)迄大隈内閣で宮内大臣を勤めますw
大正6年(1917年)これ迄の功が認められ子爵に叙されるんですよw
大正11年(1922年)8月29日に東京にて享年73歳で死去します…
その際に正二位勲一等旭日桐花大綬章が贈られたんですw
波多野氏の出自については諸説あり一説に相模波多野庄に住んだ藤原秀郷の後裔の波多野義通を祖とするってのと因幡国八上郡田公氏の族とするものがあるんですよ!義通の妹は河内源氏の源義朝の妻となり次男朝長(鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝の兄)を儲けたとされるんですよwさらに一説には桓武平氏系の三浦氏の出自とも丹波の豪族日下部氏の庶流とも言われ前歴にはかなり不明な点が多いんですよ…そんでもって波多野秀長の代に応仁の乱で東軍細川勝元方に属しその戦功により丹波多紀郡を与えられたのが丹波に勢力を扶植した始まりで勝元の嫡男政元にも仕えて以後波多野一族はこの地を中心に丹波一円へ勢力を伸ばしてったんです!!秀長の子で英君といわれる波多野稙通は永正12年(1515年)朝治山に八上城を築城して本拠として守護代内藤氏を討ち更に室町幕府管領細川氏の勢力を駆逐して戦国大名として独立を果たしたんです!!でも…波多野稙通の子晴通が暗愚だったんで波多野氏は阿波三好氏の侵攻で衰退してき最終的には松永久秀や松永長頼らに攻められて阿波三好氏に服属する事を余儀なくされたんです…晴通の子秀治は阿波三好氏の勢力が衰えると再び独立を果たし永禄9年(1566年)には八上城を奪回!!永禄11年(1568年)に織田信長の上洛の際に信長に1度は降伏するんですよ!天正3年(1575年)からは反織田勢力である丹波の諸豪族を討伐する為に織田信長が派遣した明智光秀軍に加わって織田家の為に働くけど天正4年(1576年)1月に突如として足利義昭の信長包囲網に参加して明智光秀を攻撃撃退しちゃうんですよ!!そんで秀治は織田信長と敵対します!一時は織田軍を撃退したんだけど天正7年(1579年)遂に秀治は降伏します…その後秀治は弟秀尚とともに信長によって処刑され戦国大名としての波多野氏は滅び去ったんです…ちなみに敬直は波多野一族の波多野宗高の流れを汲む子孫で直系ではないんですよ!
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波多野秀治といえば、明智光秀と対峙した丹波の豪族ですよね。
波多野兄弟が降伏の際、助命の担保として光秀の母親が人質にされたものの
信長が秀治を処刑した為に、光秀の母も殺されたと言う話がありますが、
あれは創作みたいですね・・・
2007/9/12(水) 午前 2:54 [ jir*_*abu*o_*006 ]
光秀の母だって話もあるし偽者って説もあるし…実際はどうなんでしょうね…
2007/9/12(水) 午後 9:49