中島知久平は大正から昭和期の実業家で政治家
【富士重工業(SUBARU)】の前身である【中島飛行機】の創業者
明治17年(1884年)1月1日に農業中島粂吉・いつ負債のの長男として誕生しますw
群馬県新田郡尾島村字押切(現群馬県太田市押切町)の出身なんですw
明治31年(1898年)3月に14歳で尾島尋常高等小学校を卒業します!
明治35年(1902年)10月には専門学校検定試験に合格します!!
明治36年(1903年)10月に海軍機関学校に第15期生として入学しますw
明治40年(1907年)4月25日に23歳で海軍機関学校を卒業します!
まさに大日本帝国海軍のエリートコースの始まりでした!
明治41年(1908年)1月16日には機関少尉に任官します!
明治42年(1909年)10月11日に機関中尉に昇進します!
明治44年(1911年)10月27日に日本最初の飛行船「イ号飛行船」の試験飛行に参加!
実は日本で2人目の操縦員だったんですよ!
明治44年(1911年)12月には27歳で海軍大尉に昇進してますw
この頃には既に将来有望な青年海軍将校として脚光を浴びてたんです!
明治45年(1912年)6月30日に28歳で海軍大学校を卒業します!
明治45年(1912年)7月3日からアメリカに出張し飛行士免状を取得します!
これって日本人としては3人目の快挙だったんです!
大正5年(1916年)から海軍士官としてヨーロッパへ航空事情の視察を行います!!
この時に欧米諸国の国力の強さを知ると共にこれからは「飛行機」が主流となる事を実感します!
大正6年(1917年)に帰国後に「飛行機報国」の信念から海軍を慣例を破り中途で退役します!
そんで群馬県太田市に兄弟で「飛行機研究所」を設立します!この時33歳ですw
大正8年(1919年)に「中島飛行機製作所」に改称します!
そんで大日本帝国陸軍から飛行機20機を受注を受けるんですよ!!
エンジンや機体の開発を独自に行う能力を持ち自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備えてて太平洋戦争終戦までは三菱航空機を凌ぐ東洋最大で世界有数の航空機メーカーになるんです!
さらに政治にも積極的に参加しています!
昭和5年(1930年)の第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で立候補し初当選!!
昭和12年(1937年)に鳩山一郎・前田米蔵・島田俊雄と「政友会」総裁代行委員に就任!
昭和13年(1938年)6月には第1次近衛内閣の鉄道相に就任します!
昭和14年(1939年)政友会の分裂に伴い「政友会革新同盟」総裁に就任します!
そんで総理大臣近衛文麿公爵が発足した「大政翼賛会」に対し立憲政治を侵すとして強力な政党を
作ろうとしたけど…結局は終戦まで果たせなかったんです…
昭和16年(1941年)に中島飛行機の一式戦闘機が陸軍に正式採用されます!
この頃日本はアメリカとの戦争はやむを得ずとの状態だったんです!
でもアメリカの国力を知ってたんで日米戦争に消極的だったんですよ…
昭和20年(1945年)終戦直後に東久邇宮内閣で軍需相と商工相を兼務します!
昭和20年(1945年)8月に全工場返還を受け社名を「富士産業」に改めます!
同社の技術者の多くは自動車産業へ転進し日本の自動車産業の発展に多大な貢献をしました!
その後GHQによりA級戦犯に指定されちゃうんですよ!
昭和22年(1947年)にはA級戦犯指定を解除されます!!
昭和24年(1949年)10月29日に東京にて享年65歳で死去します…
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