加藤忠廣は肥後国熊本藩の第2代目(最後)の藩主出羽国丸岡藩の最初で最後の藩主でもあるんですよ!お父サンは言わずと知れた賤ヶ岳の七本槍の一人【加藤清正】です!慶長6年(1601年)熊本藩主加藤清正の次男として誕生しますw慶長12年(1607年)1月27日実兄忠正が享年8歳で死去します…そんで跡継ぎとなるんですよw慶長16年(1611年)3月父清正は二条城での徳川家康と豊臣秀頼との会見を斡旋します! 官位は従五位下・肥後守で後に従四位下・侍従となります! 奥サン(正室)は会津藩主蒲生秀行の娘崇法院サンですw ちなみに…義兄(奥サンのお兄サン)は伊予松山藩主蒲生忠知です! まだ幼かったんで伊勢津藩主藤堂高虎が後見人を務めたんです!! でも…父清正と違って統率力に欠けてて家臣団を完全に掌握出来なくて「牛方馬方騒動」とか 重臣の対立が発生しちゃって藩政は混乱してたんですよ… 寛永元年(1624年)7月13日に父清正の盟友福島正則が享年63歳で死去します…寛永9年(1632年)5月22日江戸参府途上の品川宿で入府を止められます…そんで池上本門寺で上使稲葉正勝より突然『改易』の沙汰があったんです!! そのまま庄内藩主酒井忠勝にお預けとなっちゃいました… 嫡男光廣が冗談で諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状を悪戯で作り家臣をからかったのが 外に漏れちゃって3代将軍徳川家光の手に渡り冗談じゃなくなったんですよ! 一説には忠広自身が家臣団を統率出来なかったとか法度違反の為とも言われてます… 駿河大納言事件に関係したって噂もあるんです…でも事実は不明なんですよ… 全く忠廣に非がなくまさに『寝耳に水』の出来事だったんです… 加藤家が豊臣恩顧の有力大名で豊臣一門だったんで幕府に警戒されて結局は手頃な理由を つけられて取り潰されたという説も一番有力なんです! その後は出羽丸岡に1万石の所領を与えられます… 1年遅れで丸岡に来た母正応院と一緒に余生を送ったんです… 嫡男光廣は高山藩主金森重頼にお預けとなり天性寺に蟄居したんです… 寛永10年(1633年)7月16日に嫡男光廣で享年19歳で死去します…武人肌で改易の遠因は自分にあったと悩み堪えられなく自刃したとする説もあるんです…ちなみに…丸岡1万石は堪忍料で年貢の取立て等は庄内藩の代官が行ったんで配所に赴いた 家臣20名は専ら忠廣の身辺に仕えてたんです! 忠廣は書をしたり和歌を詠んだり金峯山参拝や水浴びとかして悠々自適に過ごしたんですw 酒井忠勝はたびたび在所を訪れて忠廣と語り合ったんですよw 慶安4年(1651年)6月に母正応院が死去します…その後体調を崩し1ヶ月程病に伏してます…承応2年(1653年)8月1日丸岡にて酒井忠当に見取られ享年53歳で死去します…戒名は「常光院証誠覚日大居士」です…墓所は山形県鶴岡市の本住寺です… 丸岡で2人の子を儲けたたけど幕府の目があり公には出来なかったんです…そんで子孫は5千石相当の大庄屋として存続し明治には自宅屋敷へ明治天皇が行幸してますw
今回も幕末以外でやってみました…やっぱり2代目ってあんまし良いイメージありませんね… 【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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清正公の血筋は大名として明治まで存続してほしかったです。
2007/11/28(水) 午後 3:02 [ tora ]
toraサン>ご訪問&コメ有難うございますw本当に加藤家は大名…旗本…とにかく武士として残って欲しかったですね!
2007/11/30(金) 午前 0:43
2代目も統率力欠けてたけど やっぱり父の清正が偉大すぎたんだろうな
なんでも出来る人で 細かい作業なんかも家臣任せにしないで 自分でやる人
だから加藤家は 清正が 全て自分で やりすぎて人材育たなかったって言われてる
清正が死んだあと 重要書類がどこにあるかわからなくて 家臣は右往左往してて
後見の藤堂が呆れてたらしい
清正が長生きして早々に隠居して体制作りしていれば良かったんだけどね
孫 バカすぎ・・・(TT▽TT)ダァー
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2009/9/21(月) 午前 11:38 [ - ]
やっぱりカリスマ性のある父を持つと子は苦労するんですよね…「統率力=カリスマ性」って感じですかね…父が凡庸であればそれ程でもおなかったんでしょうが…それにしても子の光廣はオイタが過ぎました!
2009/9/22(火) 午後 11:29