金森頼錦は美濃国美濃八幡藩の第2代目(最後)の藩主織田家・豊臣家・徳川家に仕えた飛騨高山の戦国大名金森長近の子孫ですw正徳3年(1713年)10月15日に誕生しますw父可寛は初代八幡藩主金森頼時の世継ぎだったけど享年37歳で死去します…このため祖父頼時に大事に大事に育てられたんですよ!元文元年(1736年)5月23日に祖父頼時が享年50歳で死去します…そんで23歳で嫡孫という事で家督を継いで第2代目八幡藩主となりますw官位は従五位下・兵部少輔なんですよ! 生涯奥サン(正室)を持たず第二婦人(側室)だけだったんです… 好きな女性の家柄とかいろいろ面倒があったんでしょうね… 過保護に育てられてたんでみんなに「無能」と言われてました! 延享4年(1747年)に奏者番に任じられたんです! そんで藩政では目安箱を設置したり天守に天文台を建設したりもしたんですw それなりの手腕は見せて「汚名返上」したんですよ!! 奏者番は幕閣での出世コースのまさにスタートだったんです!! 明るい将来を約束されたもんなんだけど相応の出費が必要となるんです! 宝暦4年(1754年)藩収入増加のため検見法を導入しようとします! 収入増加を安易な増税に求めた事が所詮能力の限界だったのかも… 当然これに反対する百姓による【百姓一揆(郡上一揆)】が勃発します! さらに神社の主導権を巡って【石徹白騒動】迄起き藩内は大混乱します!! 約4年にわたる一揆の結果老中とか幕府指導者数人が免職されちゃうんです…宝暦8年(1758年)12月25日幕命によって改易されちゃいます…そんで盛岡藩主南部利雄に預けられる迄この騒動は続いたんです… 農民だけじゃなくて幕府・藩の大量処罰の例は後にも先にも例が無いんです… その後丹後国宮津藩から青山幸道が移封されて来ます! ちなみに…郡上藩青山家は明治維新まで続き子爵に叙されてます! さらにこの【百姓一揆(郡上一揆)】に関する裁判の責任者として活躍したのがこの後に破竹の勢いで出世し権勢を振るう当時御側御用取次だった田沼意次その人だったんです!
宝暦13年(1763年)6月6日に盛岡で失意の内に享年51歳で死去します…法号は「覚樹院殿芳山青藍大居士」です…その後嫡子出雲守他息子らは武士の身分を剥奪されちゃいます… 明和3年(1766年)に6男頼興だけは罷免されるけど武士でいれたんです! 天明8年(1788年)に6男頼興は1500俵で金森家の名跡を継いだんです! そんで子孫は幕末まで旗本として存続したんですよw
ちなみに…金森長近の養子可重の5男重勝を祖とする分家の金森左京家は3千石の石高のまま宗家改易後も越前国南条郡白崎で交代寄合として存続したんです!ところで金森家は美濃源氏土岐氏の支流なんですよ!応仁の乱で西軍として活躍した美濃守護土岐成頼の次男大畑定頼の次男定近が寺内町として有名な近江国野洲郡金森に居住しました…そんでその定近の次男として誕生したのが金森長近なんですよ!!「金森姓」は長近が青年期を育った地名に由来してるんですよ!なお落語の祖と呼ばれ醒睡笑を編した僧安楽庵策伝も定近の息子で金森長近の弟と伝えられてるんですよw ★☆★ちなみに…下画像は藩祖金森長近の肖像画でなんですよ!決して頼錦じゃありません!★☆★ |
全体表示
[ リスト ]




初めまして。新着から来ました。金森長近はかなりの長寿だったと聞いた事があります。
2007/12/8(土) 午後 2:54 [ Mixi ]
ご訪問&コメ有難うございますw長近は享年84歳で亡くなってるんですが…かなりの絶倫だったみたいですよ!!次男長光は82歳の時に生まれてるんですよ!
2007/12/12(水) 午後 3:28
うわ さすがに知らない><;アウチ☆
宝暦 天明 自身に飢饉・・激動の時代だね
東北では 冷害不作で 飢饉の兆候は 宝暦終りから出始めてたと記憶してる
籠直訴とか 傘連判状とか 郡上一揆は よく紹介されてるね^^
連座して処分された 老中の本多の相良藩は 処分を決めた田沼が入ってるの
もちろん家重のお声かかりなんだけど 処分したとこに自分入るって 世間は引くんだよね
田沼意次の息子 意知も奏者番で出世コース乗ってる〜
諸大名の取次ぎで 実入りが多いイメージだったんだけど 出費の方がかかっちゃうのか〜〜
田沼のことは 一時期調べてたけど バラバラに覚えてたから
流れが繋がって 楽しく読めました〜 (o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆
2009/9/23(水) 午後 1:28 [ - ]
田沼意次も豊臣秀吉以来の異例の大出世だけど…末路が悲し過ぎますね…
2009/9/23(水) 午後 3:11