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幼名は「助作」だったんですよ!! それに急な事だったんで養子も取ってなかったんですよ… だから「大和国竜田藩」は藩祖の祖父且元から4代55年で無嗣改易となります… その後…幕府は藩祖且元の大坂の陣での功績を考慮して為次の弟且昭を3千石の交代寄合として取り立てる事で片桐家の名跡を存続させようとしたんです!でも…且昭も子供に恵まれずに死去しちゃってるんですよ…だから藩祖且元の弟貞隆から始まる小泉藩の一族貞就を養嗣子として迎えて家督を継がせたけど…貞就も元禄7年(1694年)2月に享年17歳の若さで死去しちゃうんですよ…貞就も子供がいなかったんです…ここに且元系統の片桐家は完全に断絶しちゃったんです…藩祖且元の弟貞隆から始まる小泉藩はその後明治まで存続したんですよ!
片桐家は清和源氏満快流で満快の曽孫為公の子為基が信濃国伊那郡片桐に住んで「片桐氏」を名乗るようになった事に始まると言うんです!為基は「片切源八」とも称してて「片桐」は「片切」とも書いた事が明かになってます!鎌倉時代の記録として有名な『吾妻鏡』にも片切太郎為安等が出てるんですよ! ★☆★ちなみに…下画像は藩祖片桐且元の肖像画でなんですよ!決して為次じゃありません!★☆★ |
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且元公の肖像画は,初めて見ました!。やっぱり,大坂夏の陣に出て,20日で,病死はおかしい。。と思います。戦場に出た人が20日じゃぁ死にませんよね。夏場だし。
2007/12/6(木) 午前 0:17
豊臣家の家老として奔走し結果的に豊臣家を守れなかった自分を責めて自害したってのが定説ですが…豊臣旧臣による陰謀…真実は本当闇の中ですよね!
2007/12/8(土) 午後 1:14
小説なんかだと 旧主を売った良心の呵責で自殺ってパターンが多いですね
でも片桐の世代なら 割り切れたような気もするし謎です
末期養子は たいてい領地 減らされますからね
弟の家が続いたのは 知ってたけど
且元の家が4代藩主まで 続いてたのは初耳でした^^
ん〜〜片桐家に対するイメージ少し脳内修正しなくっちゃ〜〜
勉強になりました〜〜ポチ!!
2009/9/27(日) 午後 2:03 [ - ]
片桐且元は基本的に太閤殿下こと豊臣秀吉に対して絶大なる恩義を感じてたんですよねwでも…淀君に対しては実際然程の恩義は感じてなかったんじゃないでしょうか…大坂の陣の際に多くの豊臣恩顧の大名が大坂方に味方しなかった理由のひとつかもしれませんねw関ヶ原で充分に恩義は返したし領地は豊臣秀吉から賜ったもので豊臣秀頼からは何も貰ってないし何もしてもらってないです…みたいな…その点で片桐且元も同時代の人物として同じ思いがあったのかもしれませんね!
2009/9/27(日) 午後 11:13