『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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浅野 長矩

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浅野長矩は播磨国赤穂藩の第3代目(最後)の藩主

【忠臣蔵】で有名な『悲劇のお殿様 浅野内匠頭』本人です!

今から305年前の明日は吉良邸に赤穂浪士が討ち入りした日です!

寛文7年(1667年)8月11日赤穂藩主浅野長直の長男長友の長男として誕生w

お母サンは鳥羽藩主内藤忠政の娘波知サンですw

幼名は「又一郎」で赤穂浅野家の嫡子はみな同じ幼名なんです!

寛文12年(1672年)に祖父長直が享年63歳で死去します…

延宝3年(1675年)1月26日に父長友が享年33歳で死去します…

延宝3年(1675年)3月25日に9歳で家督を継いだんですw

延宝3年(1675年)4月7日に4代将軍徳川家綱に初めて拝謁します!

延宝3年(1675年)閏4月に三次藩主浅野因幡守長治の娘阿久里姫と婚約w

延宝8年(1680年)6月26日伯父内藤忠勝が芝増上寺事件を起します!!

延宝8年(1680年)8月18日従五位下・内匠頭に叙任しますw

天和元年(1681年)3月江戸神田橋御番を拝命します!

天和元年(1681年)沼田藩真田家が改易されます!

そんで真田家嫡子真田信音の身柄を預かってます…

そんで15歳で山鹿素行に入門して山鹿流兵学を勉強します!

天和2年(1682年)3月に朝鮮通信使饗応役に選ばれます!!

そんで来日した通信使らを伊豆三島で饗応したんですw

ちなみに…この時一緒に饗応役をしたのが…

後に赤穂城受取役となる足守藩主木下公定だったんですよ…

天和3年(1683年)2月には勅使饗応役を拝命しますw

この時に高家吉良上野介義央が勅使饗応指南役として付いてたんです!

でも…勅使饗応役を何事もなく無事務め上げてるんですよw

お役目の直後に阿久里姫と正式に結婚したんですw

天和3年(1683年)6月に初赤穂入りし国家老大石内蔵助良雄と対面しますw

以降参勤交代で1年毎に江戸と赤穂を行き来するんです!

元禄3年(1690年)12月の江戸在留中には本所の火消大名に任命されますw

後日赤穂浪士が吉良邸に討ち入った際の衣装も火消しの衣装だったんです!

元禄6年(1693年)松山藩水谷家が改易され城受取役となります!!

元禄8年(1695年)12月に弟長広を正式に養嗣子としたんです!

その後は本所材木蔵火番や神田橋御番や桜田門御番に歴任しますw

元禄14年(1701年)2月4日に再び勅使饗応役を拝命します!

饗応指南役(先生)は前回と同じ吉良義央です!

でも…忙しい吉良はお役目で京都に出張してて月末まで戻らなかったんです…

そんで戻ってくる迄の間は長矩だけで準備をしなくちゃならなかったんです…

この時「吉良がいなくても出来るじゃん!!」って自信がついたんですw

元禄14年(1701年)2月17日に勅使一行は京都を出発します!

元禄14年(1701年)3月13日迄のイベントは無事にこなしたんです!!

運命の元禄14年(1701年)3月14日…

この日は行われる予定の儀式は幕府の行事中で最も格式高いものだったんです!!

儀式直前の午前10時頃に江戸城本丸大廊下で吉良が旗本梶川与惣兵衛と儀式の打合をしてた所へ長矩が背後から近づき突然脇差で切り掛ります!

梶川によると長矩は『この間の遺恨覚えたるか!!』と叫んだって言うんです!

でも吉良は額と背中を傷付けただけでした…

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/3e/6c/me468646/folder/1025983/img_1025983_30044990_50?1277355709

側にいた梶川らが即座に長矩を取り押さえます!

こうして松の廊下での刃傷事件は失敗に終わったんです…

捕らえられた長矩は目付多門伝八郎らによって取り調べを受けます…

長矩は「個人的な遺恨」とだけ供述し詳細は話してないんです…

午後1時頃に一関藩主田村右京大夫の屋敷にお預けとなります!

この間の江戸城内では幕臣間で長矩の処断について話し合われてました…

尊皇心が厚い事で有名な5代将軍徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされ激怒!

長矩の即日切腹と赤穂浅野家5万石の取潰を即断します!!

目付多門伝八郎は反対し慎重な取調の必要性を訴えます!

でも…側用人柳沢吉保に反対論は退けられるんです…


5代将軍徳川綱吉がこんなに「長矩の切腹」と「赤穂浅野家取潰」を急いだのは長矩の処分を断行する事で朝廷への恭順の意思を示して綱吉生母桂昌院への従一位下賜がお流れにならないようにしようという政治的意味合いもあったみたいなんです…

長矩を預かる一関藩主田村家でもまさか即日切腹とは思っていなかったんで

当分の間だけの預かりと考えて長矩の座敷の襖を釘付け等してるんです!

一関藩邸での長矩は犯罪人でありながら煙草や酒を要求したんです!!

田村家ではお茶を飲ませて要求を無視します!!

そんでお茶漬けを2杯も食べた事が記録にも残ってるんです…

いったい長矩は自分のした事や立場をわかってたんでしょうか…

その後切腹の正検死役として大目付庄田下総守安利らが田村邸に到着します…

そんで長矩に【切腹】と【改易】を宣告したんです!

一関藩の『内匠頭御預り一件』に長矩が「今日不調法なる仕方如何様にも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ有難く存知奉り候(今日犯した松の廊下での刃傷事件についてどんな裁定を申渡されて構わない状況で「切腹」の判決を申渡されて本当に有難く思います)」と答えたと書かれているんですよ!

いったいどんな深層心理だったんでしょうか…

元禄14年(1701年)3月14日午後6時頃

長矩は検死役の立会の元で一関藩田村邸庭先で磯田武大夫の介錯で切腹します…

享年35歳で遺骸は高輪泉岳寺に埋葬されてます…

辞世の句は『風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん』

長矩は元々短気で切れやすい人だったと言われてます!

また長矩はパニック症候群であったとも言われてるんですよ…

幕府隠密が全国の大名の素行を取り調べた「土芥寇讎記」には長矩について…

「智有って利発也。家民の仕置きも宜しい故に土も百姓も豊か也」と褒める一方で「女色好む事切也。故に奸曲の諂い者・主君の好む所に伴って色能き婦人を捜し求め出す輩が出頭立身す。況や女縁の輩は時を得て禄を貪り金銀に飽く者多し。昼夜閨にあって戯れ政道は幼少の時より成長の今に至って家老に任す」…

つまり長矩は女好きで綺麗な女性を献上する家臣だけを出世させる!

そんで政治は子供の頃から家老に任せてると書かれてたんです!!

『忠臣蔵』で描かれてるのとは懸離れたのが実際だったんです…

元禄15年(1702年)12月14日赤穂浪士に吉良上野介義央が殺害されます…

これが世に言う「元禄赤穂事件」なんですよ!

まるこは【反忠臣蔵派】なんで吉良上野介義央に同情します…

でも吉良も図々しいとこはあったみたいですけど…
ちなみに…直接は関係ないけど延宝8年(1680年)6月26日に4代将軍徳川家綱葬儀中の増上寺で長矩の母方の叔父鳥羽藩主内藤和泉守忠勝も宮津藩主永井信濃守尚長に対して刃傷に及んで切腹改易となってるんです…
赤穂浅野家は広島藩浅野宗家の傍流の一つで浅野長政の3男長重を祖とします!浅野長政が慶長11年(1606年)に長男幸長の紀伊37万石(後安芸広島藩42万石)とは別に自らの隠居料として常陸真壁5万石を支給されました!慶長16年(1611年)の長政の死後この5万石を3男長重が相続したんです!!その後長重は元和8年(1622年)に笠間藩主に転じ寛永9年(1632年)に死去します…そんで長重の嫡男長直が笠間藩主の地位を相続したけど正保2年(1645年)に赤穂藩主へ移封されます!!これが赤穂浅野家5万石のはじまりです!赤穂藩主となった長直は赤穂城築城・城下の上水道の設備・赤穂塩開発等を行い赤穂藩の基礎を固めた名君として知られてます!長直の嫡男が長友でその嫡男が長矩なんです!

閉じる コメント(21)

いつも有難うございまーすw

2007/12/16(日) 午後 2:28 まるこ

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こんばんわ。
浅野長矩は世間のイメージに比べると、だいぶ問題のある人
だったようですね。弟の大学との関係もあまり良くはなかった
ようですし・・・
(個人的な感想ですが、不意打ちで背後から斬りかかったのに
仕損じてしまうというのも情けないですし、そもそもが殿中で
いきなり抜刀して・・・・など家臣領民の命を預かる者のして
いいことではないと思いますし)

2008/10/4(土) 午前 1:28 [ jir*_*abu*o_*006 ]

歴史は勝者によって作られる事が殆どですが…逆に「判官贔屓」って言葉がある様に悲劇的な最期を遂げた人物にも良いイメージのみで歴史が作り上げて行く事もあります…また謎の多い旬の出来事を元に歌舞伎芝居等が作られると何も知らない庶民は強く影響されちゃうんですよね…その典型がこの一連の赤穂浪士事件だと思います!!

2008/10/5(日) 午後 2:10 まるこ

浅野家や忠臣蔵に関しては、井沢元彦の著書を読みました。世間一般では浅野が悲劇の主人公で、吉良が悪玉にされてますけど、こんなのは大嘘です。浅野はバカ殿であり、病気持ちだったのです。精神的な疾患でしょう。

当時の言葉で「つかえ」というそうですが、現代医学用語では、何と言うのか分かりませんが、乱心したのが真相です。叔父の内藤和泉守忠勝も同じ症状で、遺伝によるものではないかと思われます。

「この間の遺恨、覚えたるか!」などと叫んだのはフィクションで、「忠臣蔵」の影響です。実際は、ただ喚きながら斬りかかっただけです。何しろ浅野と吉良の両者には、元々何の恨みつらみもない間柄なのですから。

即日切腹も当たり前です。江戸城内では、鯉口三寸切っただけで、問答無用で死罪というのが幕法でしたから。

2008/11/24(月) 午後 7:13 [ - ]

>でも吉良も図々しいとこはあったみたいですけど…

これは一体どういう意味で言われてるのでしょうか?吉良は温厚で人格的に立派な紳士だったそうですが。

>赤穂藩主となった長直は赤穂城築城・城下の上水道の設備・赤穂塩開発等を行い赤穂藩の基礎を固めた名君として知られてます!

どうも長直が名君だというのは虚構みたいですね。軍縮の時代だというのに、城の拡大工事をして、税を重くしてたというし。時代の流れを読めてなかったみたいですよ。

2008/11/24(月) 午後 7:14 [ - ]

感情が激した時に胸が苦しくなるのって「パニック症候群」とも違いますし…でも正直浅野には同情の欠片もないんですよ…

2008/11/24(月) 午後 10:53 まるこ

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伊達騒動、土方騒動、忠臣蔵・・と視ていくと、豊臣残党分家切り落としのように思えます。浅野は特に、北政所が亡くなってから、後ろ盾が無くなった。会津騒動が原因で、吉良家から養子を迎えるハメになった米沢上杉藩が、気の毒です。米沢人は、会津若松では聞けないので、皆さん、喜多方で詳しい理由を聞いていくんですよ。

2008/12/14(日) 午後 5:30 タロ子別荘

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ま、世襲政治家ってのは、いつの世も、あんまり尊敬されませんね。

2008/12/14(日) 午後 5:31 タロ子別荘

時代は巡るんでしょうか…ちなみに…以前仕事の関係で何年か福島県に居住してました…関係ないですね!!そんません…

2008/12/15(月) 午後 11:37 まるこ

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歴史は人によってこんなに見解が違うものなのですね〜
かなり勉強になります。

2009/4/16(木) 午前 10:27 [ 樋菜子 ]

日本には非情の死を遂げた人物に対して同情する悪い習慣があります!所謂「判官贔屓」ってやつです!!でも単なる喧嘩でも両方の言い分やそこに辿り着く経緯があるし…逆からの視点で見ると普段見えなかったものも見えてきます!!だから歴史って面白いんだと思いますw

2009/4/16(木) 午後 11:06 まるこ

忠臣蔵 大好き〜〜ただし あくまでも 時代劇娯楽として好きです

毎年 見ても飽きないの( ̄∀ ̄*)Oo。*・。*・。ポワ〜ン

同じとこで泣いてます(*´艸`)クスッ

ただし 実際の浅野には 同情無用!アフォですわ

大名火消しのときだって 癇がキツイから 何度も演習して家臣ウンザリだった

吉良が赤穂塩の製法を狙った話(堺屋の小説ではそうなってる)もあるが

吉良の塩も ブランドとして確立してたから それも 穿ちすぎだと思う

この饗応も 院使の役が伊達の分家だったが

安芸・浅野と仙台・伊達は 慶長2年に 政宗が絶縁状叩きつけて以来不仲(和解は平成になってから)

それを わざと 双方の饗応役させて競わせたのね

エキセントリックな浅野は かなりストレスためてたみたい

2009/10/8(木) 午後 8:13 [ - ]

刃傷のあと預かり先は これまた伊達政宗の孫(ひ孫だったかも)の田村家
政宗の妻・愛姫の実家
家格がつりあう家は ほかにもあるだろうに こんな居心地悪いとこを選ぶあたり
将軍 綱吉は かなりのご立腹だったみたいだね

吉良さんは 領内の百姓にとっては名君だった
息子が跡継ぎの上杉から 援助というか かなり融通してもらったお陰で
領民たちへの取立ては ゆるかったの

だから 吉良家領内では テレビが普及する昭和前期まで 忠臣蔵の芝居・講談は 遠慮してたほどだよ

2009/10/8(木) 午後 8:21 [ - ]

将軍綱吉の治世は 功罪でいうと やはり罪の方が大きいのだけれど

元禄文化への貢献度

武家諸法度を整備して再び発布 これは改変なく 幕末まで続いた

1617年 2代様が出して以来なかった 領地宛行状(りょうちあてがいじょう)を再び大名たちに交付して
幕府の権威を回復させているし
領地宛行状をもとに 検地もして幕府の収入も増やしてる

だから功績の部分は もっと評価されていいと思う

それが なされないのは 忠臣蔵と生類憐れみの令のイメージのせいだけど

それが なぜ浸透しちゃうかっていうと 綱吉系血統が絶えたの大きい

2009/10/8(木) 午後 8:34 [ - ]

8代以降は 13代まで 暴れるあのかたの直系 14代も紀州だもん

寛政の改革した老中は 8代の孫 幕府中興の祖として 持ち上げアドバルーン

対比する相手として 5代様はうってつけ しかも生類〜の失政がある


ご政道を批判する忠臣蔵が 主役の名前変えた程度で 演じることができたのは

(でも 時々 禁じてはいたけどね)

それが 5代様だからだよ これが8代だったら幕府は絶対許さないだろうね^^

庶民の不満のガス抜きに使われた忠臣蔵で 一番損な役割を吉良様が 振られたんだと思う

2009/10/8(木) 午後 8:34 [ - ]

て いうのが 媛の裏・忠臣蔵です

あと 討ち入り当時なら 量刑の比重の不公平を正す〜が一大目的

主君のあだ討ちとか 無念晴らすとかじゃ 全然ないよ^^;;

前例に反して 綱吉が浅野を厳罰にしちゃったじゃら

浅野を潰すなら 吉良も切腹で 量刑のバランスをとる を実力行使したテロだもん

江戸っ子は 不正を正したのを褒めたのであって 仇討ちだからじゃない

後世 完全に美化されたからなぁ

赤穂の子孫も 初期は連座したりで スゴイ苦労してるが

美化伝説が進んで 恩恵を蒙るようになるのが 8代サマのころからだよ^^

忠臣蔵 好きだから ガッツリコメしちゃって ごめんね〜

(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆

2009/10/8(木) 午後 8:43 [ - ]

ちなみに 柳沢は 引き際が綺麗なんで 嫌いじゃないです

2900プチきりコメ おめでとう!!

2009/10/8(木) 午後 8:47 [ - ]

実は生類憐みの令って今に伝わる悪法じゃなかったとまるこは思うんです!(詳細は⇒http://blogs.yahoo.co.jp/me468646/23962799.html)でも将軍専制を無理強いするあまりに反動も大きかったんだと思うんですよ…多少徳川綱吉も癇がキツイとこはあるけど浅野に同情はないですね!!理由はどうであれ刃傷御法度の江戸城内での行為に「喧嘩両成敗」を主張した赤穂藩はおかしいですよね!

2900コメ目有難うございます♪

2009/10/8(木) 午後 11:25 まるこ

うん 浅野の主張は変

吉良の浅野虐めは全部創作
当時は 浅野の動機が 謎だったし

だいたい あれは喧嘩じゃない
無抵抗の老人を通り魔みたいに斬りつけて

しかも仕留め損なうアフォかって空気

だから綱吉が見苦しい浅野って怒り倍増

あと 喧嘩両成敗と言っても 手出しせず我慢した方が許される事も あるから 裁断自体は 悪くない

でも 通常の閣議しないで 将軍即決が まずかった

赤穂侍は裁断が 将軍恣意による不公平があるとし 世論も それに流れた

綱吉の性格が音便に終わるのを事件にしたんだと思います

2009/10/9(金) 午後 0:33 [ - ]

実際この事件の影響で徳川綱吉のお母サン桂昌院が従一位に叙任する件が流れそうになってるし…マザコンの綱吉にとってはまさに激昂ですよね!!ちなみに…桂昌院の名前は「玉」って言うんですよ!元々は低い身分の出で3代将軍徳川家光のお手つきとなって最終的には女性最高位の従一位の官位を賜る大出世をしたんですが…これにちなんで「玉の輿」って言葉の語源になったって説もあるんですよ♪

2009/10/9(金) 午後 3:34 まるこ

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