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官位は従五位下・左京亮・出羽守・対馬守ですw 天正6年(1578年)から父忠家は伯父直家の名代として総大将を務めてます! 天正10年(1582年)1月9日に伯父直家が享年53歳で死去します…その後を幼少の従兄弟秀家が後を継ぐと父忠家は一門衆筆頭として後見するんです!父忠家は備中高松城攻めや朝鮮出兵で宇喜多軍の大将を務めました! 詮家も父忠家同様に宇喜多家の重臣として仕えます! その時の知行は2万4千石だったんですよ! でも…9歳年下の従兄弟秀家とは仲が悪かったんですよ… 慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が享年63歳で大坂城にて死去します…慶長4年(1599年)に宇喜多家内でお家騒動が発生すると秀家と対立しちゃいます!!慶長5年(1600年)1月に会津上杉征伐に従兄弟秀家の名代として出陣します! 直後に発生した関ヶ原の戦いで東軍に与するんですよ! 戦後その功績により石見国津和野藩に3万石を与えられたんです! この時に「宇喜多姓」を嫌った徳川家康より「坂崎姓」に改めるように命令されます! そんでこれ以降【坂崎直盛】と名乗るようになったんです! 慶長8年(1603年)2月12日に徳川家康が征夷大将軍に任官します! 慶長10年(1605年)頃に甥宇喜多左門が家臣を殺害します! そんで義兄富田信高が甥宇喜多左門を匿うんでますよ! そんで徳川家康・秀忠親子の裁定により義兄富田信高が改易されちゃうんですよ… 元和元年(1615年)大坂夏の陣で大坂城落城の際に徳川家康より密命を受けます!! 徳川家康の孫娘であり豊臣秀頼の正妻の千姫を大坂城から救出する重大指令です! 一命を投げ打って火傷を負いながらも千姫を何とか無事に救出したんです! そんでその功績によりさらに1万石を加増されます!! だけど…直盛の火傷の痕を見た千姫が怖がって直盛を拒絶しちゃいます… そんでその悔しさから『千姫奪取計画』を立てる事件を起こしちゃったんです! 元和2年(1616年)4月17日に徳川家康が享年74歳で死去します…『千姫奪取計画』が幕府にバレちゃいます…元和2年(1616年)9月11日に享年53歳で自害します…でも…現在は千姫を大坂城に侵入して千姫を直接救い出したこと自体が疑われてます…実際は千姫は堀内氏久という豊臣方武将に護衛されて直盛の陣まで届けられてその後直盛自身が徳川秀忠の元へ直接送り届けたとする説が有力なんですよ…
この事件は豊臣秀頼の死後未亡人となった千姫の身の振り方を徳川家康から頼まれた直盛が 公家との間を周旋し縁組の段階まで話が進んでたのに突然姫路新田藩主本多忠刻との縁組が 決まっちゃったんで面目を潰された直盛が千姫奪回計画を立てたと言われてるんです… だけど幕府にバレちゃって一族によって自害させられたとも言われてるんです… 柳生宗矩の告口でヤバいと思って自害したとも言われてるけど真相は謎なんです… その一方当時江戸に滞在してたイギリス人リチャード・コックスの日記によると… 『1616年10月10日夜遅くに江戸市中に騒動起これり。こは出羽殿と呼ばれし武士が皇帝(2代将軍徳川秀忠)の女(千姫)が明日新夫に嫁せんとするを途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し老皇帝(徳川家康)は生前に彼(直盛)が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し彼(直盛)に彼女(千姫)を与へんと約せしに現皇帝(2代将軍徳川秀忠)は之を承認せずして彼(直盛)に切腹を命ぜり。されど彼(直盛)は命を奉ぜず全て剃髪せる臣下1千人及び婦女50名と共に其邸に拠り皆共に死に到る迄抵抗せんと決せぬ。是に於いて皇帝(2代将軍徳川秀忠)は兵士1万人余人を以て其邸を囲ましめ家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡19歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに父は之を聞くや自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣等は後に主君を殺して首級を邸外の人に渡し其条件として彼等の生命を助け領土を他の子に遺はさん事を求めしが風評によれば皇帝(2代将軍徳川秀忠)は之を諾せし由なり』と書いてます…とにかくこの騒動の結果津和野藩坂崎家は断絶しちゃったんです… でも中村家が子孫として現在も存続されてるんですよw 墓所は島根県津和野町の永明寺にあるんですよ… 関ヶ原の戦いに敗れ改易された出羽国横手藩主小野寺義道は津和野で庇護を受けてましたw そんで直盛の死後13回忌に小野寺義道は恩義に報いる為直盛の墓を建てたと言われてます! 一方的な横恋慕から藩の断絶に遭ったとして凡将と評価される事があるけど 【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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私はてっきり「千姫を助け出したら嫁に与える」という約束を反故にされたので略奪を目論んだ、という俗説を信じていました。謝らないと…。
2008/1/10(木) 午後 5:37
徳川幕府としては非が無い千姫救出の第一功労者を取り潰すにはその位の理由付けをしないとならない状況もあったんでしょうね…
2008/1/11(金) 午前 11:03
生まれが韓国人だという説もありますが。。。
2008/10/14(火) 午後 10:49 [ ccooffee ]
コメント有難うございます!全く知らなかったです!
2008/10/17(金) 午後 9:36
木像は宇喜多忠家ではなく、直家のものです(^_^;)
2009/2/7(土) 午後 7:23 [ 詮家の末裔 ]
本当に失礼しました… m(_ _)m 恥ずかしさいっぱいです!!
2009/2/9(月) 午後 11:04
宇喜多直家には弟二人いた説と 一人説あるけど
真実わかるのは この方ですね^^b
坂崎の宇喜多姓は 浮田の方だったとも言われてます
つまり宇喜多を名乗れるのは本家筋だけだったらしい
坂崎は 功労ある家柄でありながら それらしい待遇が無いのが不満でもあったようです
つまり藩主の秀家さんは 秀吉お声がかりの家老 長船を筆頭家老にして
愛妻・豪の実家からきた 新参家臣 中山を重用したため
秀家さんとの 仲が こじれまくりです
父の忠家は 秀家さんが一人前になると同時に 出すぎないように 静かに身を引いたようで
息子が宇喜多騒動を起こした時に 出家してます
2009/6/19(金) 午後 10:47 [ - ]
いつも誰かと 揉めてるイメージですが
友情には熱いタイプだったみたいで
あっちにも書いたけど 友情から 家臣の成敗を手伝うなんてこともしてる
でも徳川家には どうも好かれない 評価されないんです^^;
なんか 嫌われるムードでもあったのか
大坂の陣で 首級あげて 本陣に持ってったトキも
「大将 自ら斬り合って しかも雑兵のクビ2つ 持って来るなんて バカじゃね?」的な 冷たい目線なんです〜〜^^;;
ちょっと気の毒なくらい評価低いですね
長々すいません 宇喜多秀家公からみは つい熱くなります〜ポチ
2009/6/19(金) 午後 10:48 [ - ]
やっぱり戦国の気風が残ってる時代から徐々に平和な時代へと移り行くにあたって時勢に対応出来なかったんでしょうね…戦さ自体も個々人の武勇よりも組織戦へと変わっていますからね…再評価要の人物です!
2009/6/22(月) 午後 1:55
最近 知ったんですが 彼もキリシタンでした
洗礼を受けた後 すぐに奥方が亡くなるけど
これは悪魔の誘惑だ ワシは改宗しないぞ と益々励んだ
って宣教師が記録してます
ちょっと意外でした(*´∇`*)
2009/10/20(火) 午後 10:57 [ - ]
当時戦乱の中で神も仏も信用出来ない状況だったんで…海外の信仰は受け入れやすかったのかもしれませんね…でも高山右近と違って自分自身の立場はしっかり弁えてたんですね!!
2009/10/20(火) 午後 11:15