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通称は「彦四郎」で官位は従五位下・主膳正なんですよw 6歳年上の兄秀以とはとっても仲が良かったんですw 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月2日二条御所で織田信忠が享年26歳で死去します…この時に父玄以は信忠の嫡男三法師(織田秀信)を連れて京都から脱出します!そんで美濃岐阜城を経由して尾張清洲城に逃げたんです!! 天正11年(1583年)から父玄以は織田信雄に仕え京都所司代に就任します! そんで朝廷のと交渉役を務めてるんですよ! 天正12年(1584年)頃から父玄以は羽柴秀吉の家臣となってますw 天正16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸で父玄以は奉行として活躍w その一方で寺社の管理も任されキリシタン弾圧もやってるんです… だけど後に父玄以は弾圧ばかりじゃなくて融和的政策も行ってますw 文禄4年(1595年)に兄秀以と一緒に洗礼を受けキリシタンとなりますw 「コンスタンチノ」って言う洗礼名を賜ってるんですよw この時に父玄以に兄秀以は洗礼の件をカミングアウトしちゃいます!! でも…茂勝自身は父玄以に洗礼の件を内緒にしたんです… 慶長元年(1596年)に父玄以が兄秀以を追放しちゃいます! これはキリシタンの兄秀以が家督を継ぐと前田家改易の危険があるからなんです… 慶長3年(1598年)に父玄以が豊臣政権下の五奉行の1人に任命されますw 慶長3年(1598年)8月18日に太閤豊臣秀吉が享年63歳で大坂城で死去します…父玄以は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力しますw茂勝自身も父玄以同様に西軍に加担したんです!! 父玄以は徳川家康討伐の弾劾状に署名もしちゃってるんですよ! だけど…徳川家康に石田三成の挙兵を教えたり内通行為を行なったんです… そんで病気を理由にして関ヶ原本戦には出陣しなかったんです! 茂勝自身は細川藤孝が守る丹後国田辺城を攻め開城の使者も務めてます! そんで父玄以同様に関ヶ原本戦には出陣してないんですよ! 戦後に父玄以が持ってた朝廷とのパイプ等もあり西軍だったけど改易されず 丹波国亀山藩5万石の本領を安堵され父玄以が初代藩主となってますw ちなみに…父玄以同様に五奉行増田長盛も大坂城に留守居役として残り西軍の情報を提供して徳川家康に内通してたんだけど関ヶ原の戦い後に所領を没収され改易されたのとは対照的なんですよ!!全ては朝廷とのパイプが物を言ったんです! 慶長6年(1601年)閏11月6日に兄秀以が享年26歳で死去します…父玄以の命令で自害に追い込まれたとか殺害されたって噂もあるんです…だけど父玄以に内緒で兄秀以の葬儀をキリスト教式の葬礼で行なったんですw 慶長7年(1602年)5月20日に父玄以が享年63歳で死去します…墓所は父玄以・兄秀以ともに京都府京都市右京区花園の妙心寺です…そんで20歳で家督を継ぎ第2代目に丹波国亀山藩主となります! だけど…その着後に丹波国八上藩に移封されちゃいます… 更にキリシタンとして熱心な信仰を行なってたんで幕府に危険視されます… また茂勝自身も藩政を家臣に全部任せちゃって怠け放題だったんです… 若いから藩主としてのプレッシャーとかキリスト禁教とかで悩みます… しまいには発狂しちゃって家臣尾池清左衛門とか多くの家臣達を 殺害したり切腹させたりしたんです… 慶長13年(1608年)遂に幕府により改易をさせられるんです… 改易後はキリシタンとして真面目な生活を送ったんですよ… 元和2年(1616年)4月17日に徳川家康が享年74歳で死去します…元和7年(1621年)に松江で享年39歳で死去します…この時茂勝には子供がいなかったんですよ…だけど下の弟正勝の系統は1400石の旗本としてその後も存続したんですw |
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う〜〜む 息子 二人とも ほとんど知らなかった
なにせ 父親ですら 秀吉主催の仮装大会で尼僧に仮装した
エピソードだけが やたらインパクトあるんだもん〜^^;;
父に信仰をカミングアウトできないとこみると 気が弱い人だった感じだね
もっとも父は豊臣政権では宗教対策の奉行だったから 言えない気持ちも判るけど
まだ若いのに〜大名時代のプレッシャーが寿命縮めたかも(−−)
家が存続してよかった〜ポチ
2009/10/21(水) 午後 7:35 [ - ]
「親の心子知らず」でしょうか…「蛙の子は蛙」じゃなかったって事ですねw
2009/10/21(水) 午後 11:08