松倉勝家は肥前国島原藩の第2代目(最後)の藩主過酷な藩政治を親子2代で行い島原の乱の主因を作った人物です!島左近と並び大和筒井家の両翼「右近左近」と称された松倉重信の嫡孫です!慶長2年(1597年)豊臣家家臣松倉重政の嫡子として誕生しますw父重政は元々大和太守筒井順慶の家臣で順慶死後に豊臣家に仕えてましたw お母サンは大和郡山城主筒井正次の娘サンなんですよ! 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに父重政は単身で参陣し奮闘します! そんで徳川家康の目にとまり戦後に大和五条二見城主となったんです!! 慶長20年(1615年)に父重政と共に大坂夏の陣に幕府方として出陣します! 親子で道明寺方面で奮戦し活躍するんですw 元和2年(1616年)その功績で肥前国島原4万3千石を与えられてたんです! 元和2年(1616年)4月17日に徳川家康が享年74歳で死去します…元和4年(1618年)父重政と共に島原城新築と城下町整備を行いますw石高に見合わない壮大な規模の島原城の建築のため領民に重税を課します!! さらに検地を行い領内の石高を実勢の倍近く10万石と見積もるんです… そんで領民の限界をはるかに超える重税を取り立てて行くんです… 領民が反乱を起こすのは既に時間の問題となってたんですよ… 元和7年(1621年)から最初緩やかにキリシタン弾圧を開始します! 寛永2年(1625年)に父重政が3代将軍徳川家光にキリシタン対策が甘いと 言われたのをきっかけに発奮し徹底的な弾圧に切り替えて行ったんです… 例えば…顔に「吉利支丹」と言う文字の焼き鏝を押したり… 手足の指を切り落としたりとか種々の拷問を行ってます… 寛永4年(1627年)雲仙地獄の熱湯を使いキリシタンの拷問・処刑を開始します!! 寛永6年(1629年)長崎奉行竹中重義に勧め長崎内のキリシタンを雲仙に連行… どこまで本気かわかんないけど父重政はキリシタンの根拠地を滅そうと考え そんでルソン(フィリピン)を独力で攻略計画を立て戦費を領民に課します!! 寛永7年(1630年)11月16日に父重政が享年56歳で急死します…あまりの悪政を見かねた幕府による毒殺と言う噂もあったんです…また宣教師達は罪の無いキリシタン達を責め殺した呪いだとも噂します… どちらにしても33歳で家督を継ぎ第2代目の島原藩主となります! そんで父重政をも凌ぐ過酷な収奪を行って更に領民を苦しめたんです… 寛永9年(1632年)1月24日に大御所徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永11年(1634年)悪天候と旱魃で島原藩内は大凶作になります!でも…大凶作でも容赦せず重い年貢の取立てを行います… 米や農作物の取立てだけじゃなくて人頭税や住宅税等ありとあらゆる税を 新設して取立てた事は多くの記録文献にも残ってるんですよ… ついには年貢を納められない領民や庄屋の妻や娘を人質にとるようになります…
女性や子供に蓑を着せ火をつけて苦しむ姿を「蓑踊り」と呼んだんです… 寛永14年(1637年)10月に口の津村の庄屋与左衛門の妊娠中の奥サンが 人質として捕らえられ冷たい水牢に裸で入れられちゃってるんです… 庄屋宅では人々が集まり何とか年貢を納る方法はないかと話し合ったけど もう納めるものなんて何もなかったんです… 佐々成政・小西行長・加藤忠廣の改易で大量に発生してた浪人も反落軍に参加します!! 反落軍は天草四郎時貞を総大将に富岡城や本渡城等を次々に攻撃し落城させます!! 唐津藩天草領でもこれに呼応して領民が蜂起しちゃうんですよ!! その際討ち取れた富岡城代三宅重利は明智光秀の娘婿秀満の子供なんですよ! 反落軍はその数3万7千にもなり廃城となってた原城址に篭城します! これに対処出来ず自らの失政を認めずキリシタンの反乱として幕府に救援を求めます! 実際はこの時宗教戦争じゃなく勝家の失政が原因だと幕府は知ってたんですよ!! でも幕府はこの反乱をその後のキリスト教禁教や鎖国政策推進に利用したんです! そんで幕府は九州諸大名12万5800人の鎮圧軍を持って攻めるんです!! 寛永15年(1638年)2月28日篭城した反乱軍が全滅する形で収まります… 寛永15年(1638年)4月12日に島原の乱の責任を問われ所領を没収されます… なんでいかに幕府が松倉家の苛政を重罪として扱ったかが推察でします… |
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島原の乱を題材にした、お芝居「SHIRHO」の影響で、松倉勝家はとても印象悪い大名さんです。舞台でも箕の踊りや過酷な税を取り上げてました。幕府遠征軍の板倉重正とも共に、知恵伊豆に嵌められた殿様でしょうね・・・
2008/1/21(月) 午後 11:49
うちの地元には松倉勝家の子孫(たぶん)の元町長と、肥後国衆一揆・田中城の戦いで一族を裏切った辺春氏の子孫(たぶん)の住職と、肥後国衆一揆の首謀者隈部親永の子孫(たぶん)の住職がいます(爆)。玉名市って凄い???
2008/1/22(火) 午前 2:50 [ 鳳山 ]
松倉勝家は正直まれに見る暴君でしょうね…親子で出世欲が強い…いい意味で向上心が高かったんでしょうけど…ある一線を越えた時に全てが狂ったんだと思います…人間の欲って怖いですね!
2008/1/23(水) 午前 9:44
玉名市って本当にある意味で凄いですね!!当時の当人達もこの現状は想像出来なかったでしょうね…たぶん(笑)
2008/1/23(水) 午前 9:46
松倉重政・勝家ともに暴政をしいたことで有名ですね。
たしかに、江戸城で刃傷に及んだ場合でも切腹が殆どなので、
勝家の斬首は幕府がそれだけ重大だと判断したんでしょうね。
また、旧松倉・寺沢領内の再興に関するエピソードも興味深い
ものがあります。
2008/2/9(土) 午後 3:13 [ jir*_*abu*o_*006 ]
最近は忙しくて更新をサボってますが…近々このカテゴリで唐津藩寺沢家を取り上げようと思ってますw
2008/2/15(金) 午後 10:22
まるこさん 昨日はトラバを たくさんありがとう(≧▽≦
実は 今日は携帯からなんで お礼トラバ出来なくて すいません(;^_^A(;^_^A
明日 改めて 参上します〜(*^o^*)♪
2009/10/22(木) 午後 9:39 [ - ]
三千コメントおめでとう(≧▽≦)ゞ
後日改めて来ます(*´∇`*)
2009/10/22(木) 午後 9:53 [ - ]
勝手にいっぱいしちゃってごめんなさい…気にしないで下さいませ!
2009/10/22(木) 午後 9:54
おぉー3000コメ!!気が着かなかった!!…って言うか自分でキリ番踏んじゃった気がします…ショック…
2009/10/22(木) 午後 9:56
あはは 媛も しょっちゅう自分で踏んでます^^
松倉・父は 若いころは まだマトモで
大坂の陣で郡山城が豊臣側に落とされたトキに
逃げ遅れて郡山に残っていた 友人の間宮を助け出すために
小勢で立ち向かったという友情話があります
島原の前任地では 善政で名君とも言われてたそうです
やはり フィールドワークから遠く離れた島原を拝領したので 人情として 農民に愛情を持てなかったと思います
たぶん 地元百姓の地下言葉は 理解できなかったはずです
さらに「キリシタン取締り」を言われた時に 一線超えてしまったんでしょう
息子の方は 完全な異常人です
2009/10/23(金) 午後 7:33 [ - ]
こういう時の逸話って 「後から不当に悪く言われて・・・」ってパターンですが
松倉息子の場合は まんまです
それどころか歴史に埋もれてる犠牲者の話は もっとあるんじゃないでしょうか
島原の乱の籠城側は公式記録では 絵師・山田以外 死んだことになってますから
斬首は当然です
松倉の子孫が残ってなくて この場合は幸いです
生き残っていたら 連座で どんな悲惨なことになったか知れません
死者に合掌 ポチ!
2009/10/23(金) 午後 7:39 [ - ]
島左近と並び称される逸材だったお父サンも筒井家のいち家臣から大名にまで出世した奢りもあったんでしょうか…やっぱり器じゃなかったんでしょうね…そんな落日の父の背中を見て育った息子はさらに輪を掛けてやっちゃってます…日本の闇の部分ですね……合掌(-人-)
2009/10/23(金) 午後 11:35
当然公の記録にはありませんが、松倉氏の直系子孫は、島原対岸の横島村に隠れ住み、代々玉名市に居住、現在熊本市に移り住み、天草史を研究されています。そっとしてあげてください。
2015/8/3(月) 午前 6:25 [ モッチャン ]