『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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堀 忠俊

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堀忠俊は越後国越後藩の第2代目(最後)の藩主

豊臣恩顧の有力大名【堀秀政】の嫡孫なんですよ!

慶長元年(1596年)北ノ庄藩主堀秀治の嫡男として誕生しますw

お母サンは東郷領主長谷川秀一の娘サンですw

慶長3年(1598年)に父秀治が北ノ庄18万石から越後春日山45万石へ加増されます!

慶長3年(1598年)8月18日に太閤豊臣秀吉が享年63歳で大坂城で死去します…

慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いで父秀治は東軍に属しますw

そんで越後国内で発生した上杉景勝旧臣の一揆を鎮圧したんです!

戦後その功により父秀治は徳川家康から所領を安堵されますw

でも…最近になって西軍に内通してた疑いがある書面も発見されてるんです!!

家老堀直政の尽力で徳川秀忠の養女百合姫と結婚しますw

徳川家康の外孫で本多忠政の娘百合姫を一旦徳川秀忠の養女としたんですよw

ちなみに本多忠政は蜻蛉切で有名な徳川四天王本多忠勝の長男ですw

さらに徳川秀忠から「忠」の一字と「松平姓」を賜りますw

慶長11年(1606年)5月26日に父秀治が享年30歳で死去します…

そんで家督を継いで越後春日山45万石の藩主となるんですw

慶長11年(1606年)に実弟堀鶴千代が急な病気でわずか9歳で死去します…

慶長12年(1607年)上杉謙信時代からの越後国の本城春日山城を廃城にして

福嶋城に居城を移しちゃいます!

やっぱり太平の世に交通の便が悪い山城は適さなかったんですよ…

勿論忠俊自身は幼少で生まれつき病弱だったんで藩政は名臣として名高い

叔父直政が取り仕切ってたんですよ!

慶長13年(1608年)2月26日に叔父直政が享年62歳で死去します…

この死後位から藩の主導権を巡り堀家の内部で内紛が起こります…

当事者は叔父直政の長男直次(越後三条城主)とその異母弟直寄(坂戸城主)です!!

慶長15年(1610年)に入ると内紛は激化します!

慶長15年(1610年)2月遂に徳川家康の裁断を受ける事になります!!

忠俊自身は直次を支持して助命嘆願したんです!

でも…徳川家康の調査でとんでもない事が発覚しちゃうんですよ!!
直次が興味本位で「浄土宗」と「日蓮宗」のそれぞれの僧侶達を争論させて結果敗れた方の僧侶を全て処刑してた事が発覚しちゃうんですよ!!!
これに徳川家康は激怒し下記の裁定を下したと徳川実紀には記されてます…
「忠俊幼弱にして讒臣に迷ひ。邪正を弁へず讒者を助けんとするをもて。大国を封ずる器にあらずとて。忽に越後の国四十五万石を奪われ云々」

これが原因で幕府より忠俊と直次は改易されちゃうんですよ…

ちなみに直寄は1万石減封の処分のみで済んだんです…

その後磐城平藩鳥居忠政預かりとなり「茶の湯」を楽しみに余生を過ごしますw

堀家が豊臣恩顧の大名だったんで巨大な加賀前田家を抑える為にはもっと信頼

出来る一族を越後に配置したいという幕府の思惑があったと言われてます!

そんで堀家改易後には徳川家康の6男松平忠輝が75万石で入封します!

慶長19年(1614年)に松平忠輝は高田城を築城し福嶋城を廃城にしたんです!!

元和2年(1616年)4月17日に大御所徳川家康が享年74歳で死去します…

元和7年(1622年)2月2日配流先で享年26歳で死去します…

墓所は福島県いわき市平字胡摩沢の曹洞宗淵室山長源寺です…

長源寺は徳川秀忠の命で伏見城死守の上戦死した鳥居元忠供養の為建立した寺です!

その後の堀宗家は弟鶴千代は早死にしその下の弟季郷は日向内藤家に仕えます!

息子季俊は加賀前田家に仕え堀宗家の越後統治は13年で幕を下ろしたんです…

ちなみに…宗家の没落をよそに元家老直寄は着実に出世し長岡城を建設したり新潟町の基礎を築き村上城下町の整備も進めます!そんで越後堀家は直寄の次男直時の家系の村松藩3万石と叔父直政の4男直之の家系の椎谷藩1万石が残ったんです!
☆★☆上画像は春日山城址です!下画像は祖父堀秀政ですw決して忠俊じゃありません!★☆★

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堀家も代々の当主が蒲生氏と同じく早死にしている印象を受けます。
一応、秀治の弟の系統は一応大名として残っているので、蒲生氏
よりはマシですが・・・。堀直寄というと、上野の大仏(現存はしていない)を建立した人だったと思います。

2008/2/25(月) 午後 9:27 [ jir*_*abu*o_*006 ]

そうですねw当時の平均寿命も今よりもかなり低かったとは思いますが30前後はやっぱり早過ぎですよね…上野大仏は寛永8年(1631年)に堀直寄が戦死者慰霊の為に建立したんですよねwでも関東大震災の時に首が取れちゃって第二次世界大戦の時に顔面以外の部分が政府に摂取されちゃったんですよね…顔面はまだ上野寛永寺に保管されてるんですよねw

2008/2/27(水) 午後 4:21 まるこ

堀家は 最近 区別ができるようになった媛です^^

百合姫はバツ一だったんだけど なにせ 家康お気に入りだったから気楽に暮らしてたみたいだね

忠政の奥方が熊姫で 家康の切腹させた長男の娘だったから〜〜

で・・・百合姫(別名国姫)は 名前の通り 凄い美人だったらしいが 胸毛がイタリア男性のごとくあったらしい

どこまで ほんとか不明だけどね^^;;

宗論は すでに宗教対策の一環で禁止されてたからなぁ

特に日蓮宗が宗論するのは 魔王・信長も禁じてたほどだし

一揆とかで さんざん宗教対策で苦労してる家康にとっては 興味本位でやるなんて 許せないだろうし

とにかく 叔父たちだけでも大名として残って良かったです^^

(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆

2009/11/7(土) 午後 6:45 [ - ]

ご法度の宗論をやっちゃったので…負けた側を口封じの為殺しちゃうってのは…どう考えても頂けないですね!!でも…百合姫(本多忠勝の孫)は凄い美人だけど…胸毛がイタリアンってのは初めて知りました!!

2009/11/7(土) 午後 11:09 まるこ

すいません^^書き間違った

最初のダーリンが堀さんで 改易になったんで江戸城に出戻ったの

で 再婚で九州の有馬さんと結婚

その有馬関係文書に 百合姫のことを書いてるんです

意訳すると

「国姫は 武芸に優れ 顔は端正 そして 立派な胸毛がありました 立ち居振る舞いも堂々と 武将のようです」

とあるの 2・3本無駄毛レベルじゃなくて 熊のようだって^^;

有馬さんは キリシタンを辞めた証と徳川の忠誠のために

前妻(小西行長娘)を離婚して国姫と結婚してるから悪く書かれているんです

堀さんが改易になったのも 百合姫が徳川に いろいろチクったせいだとか 有馬関係文書に書かれてる

武芸優れ・・・伯母の小松? 胸毛・・・母親の名前が熊だから?

でも 全く根拠のないことは 書かないんじゃないかなぁ

顔は綺麗って ちゃんと書いてるしなぁ^^

面白姫伝説を見つけて 堀さんの区別がつくようになった媛でした

2009/11/8(日) 午前 11:36 [ - ]

詳細有難うございまーすwでも…胸毛の事を文章化されて後世に残ってるのももっと凄いですよね…でも女性で胸毛が生えてるってのが全く想像出来ないまるこです…本多家は男女問わず武勇に優れた家柄なのは間違い無いですね♪特に女性は伯母小松姫もそうですが「美人家系」なんでしょうねw

2009/11/8(日) 午後 11:11 まるこ


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