今からちょうど351年前の今日の5日前…3月2日
明暦3年(1657年)3月2日に江戸の町を大火が襲いました!!
3回に及ぶ出火で江戸の市中の約60%が焼失し死者は10万人以上と言われてます!!
江戸城天守閣も焼け落ちその後二度と再建される事はありませんでした…
これが「明暦の大火」で通称「振袖火事」とも呼ばれた史上最大の火事なんですw
火災としては東京大空襲・関東大震災等の戦禍・震災を除き日本史上最大です!
また世界3大大火の一つに数えられてるんですよ!!
今迄広く一般には本妙寺が火元とされてます!
上野の神商大増屋十右衛門の娘おきくサンは花見の時に美しい寺小姓を見初め小姓が着てた着物の色模様に似せた振袖を作ってもらい毎日寺小姓を想い続けたんですwそんで恋の病に臥せったまま承応4年(1655年)2月11日に享年16歳で亡くなります…
寺では法事が済むと仕来り通り振袖を古着屋へ売り払っちゃうんです…その振袖は本郷元町の麹屋吉兵衛の娘お花サンの手に渡ったけどそれ以来お花サンは病気になり明暦2年(1656年)の同じ日に死去します…
振袖は再び古着屋の手を経て麻布の質屋伊勢屋五兵衛の娘おたつサンの元に渡ったけどおたつサンも同じように明暦3年(1657年)1月16日に亡くなっちゃうんですよ…
おたつサンの葬儀に十右衛門夫婦と吉兵衛夫婦もたまたま来てて3家は相談して因縁の振り袖を本妙寺で供養してもらう事にします!!
でも…和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間に突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込みそれが燃え広がって江戸中が大火となったんです…
でも…本当のとこ本妙寺は火元じゃないんです!
本妙寺は幕府の要請で火元の汚名をかぶっただけなんですよ!
理由は当時江戸では火事が多くて幕府は火元に対して厳罰をもって対処してたんですよ!!でも…火元とされる本妙寺に対しては一切お咎め無しだったんです…
それだけじゃなくて大火から3年後には客殿・庫裡を再建しますw6年後には本堂を復興し10年後には本妙寺が日蓮門下勝劣派の触頭に任ぜられてるんですよwちなみに…触頭とは幕府からの通達を配下の寺院へ伝達したり本山や配下の寺からの幕府への訴願諸届を上申する役なんです!
これはむしろ異例な厚遇なんですよ!ましてや大火の火元とされる寺院にはあり得ない事なんです!さらに本妙寺に隣接して風上にあった老中阿部家からは毎年本妙寺へ明暦の大火の供養料が大正12年の関東大震災にまで260年余に渡り奉納されてたんですよ!
この事実からして一般に伝わる「本妙寺火元説」を覆するものなんですw
大火の供養料の場合普通なら幕府が犠牲者の為に創立した両国の回向院へ
奉納すべきなんですよね!!
ちなみに…大火の当日は朝から北西の強風が吹き荒れてた事は記録で明らかです…
真相は本妙寺に隣接して風上にあった阿部家が火元なんです!
老中の屋敷が火元だと幕府は示しがつかず威信失墜に繋がります…
江戸復興政策の支障を来す為幕府の要請で本妙寺が火元の汚名を引受けたんです!
そんで結果として阿部家を失火の責任から救う事になったんですw
また謎の供養料はそれに対するお礼と解するのが妥当なんですね!
幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする説もあるんです…
当時の江戸世界でも屈指の100万都市でしたw
でも…急速な発展で都市機能が限界に達しててもはや軍事優先の都市計画じゃどうにもならないところまで来てたんです…
だけど都市改造には町民の説得や立ち退きに対する補償等が大きな障壁となってたのも事実です…
そこで幕府は「大火を起きて江戸市中が焼け野原になれば必要上都市改造が一気に進む」と考えたと言うんです!!江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため放火計画は立てやすかったと思われます…実際に大火後の江戸では都市改造が行われてるんですよ!!
それに…
火元が1ヶ所じゃなくて本郷・小石川・麹町の3ヶ所から連続的に発生してるんです!
ひとつ目の火災が終息しようとしてるとこへ次の火災が発生しまた次という感じで…
このことは幕府放火説の有力な根拠のひとつとなってるんです…
でも…正直真相は全く不明なんですよ…
ちなみに旧暦だと「3月2日」は「1月18日」なんですよw
みなさん!火の取り扱いには充分に注意して下さいね!!
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TB有難うございますw感謝です m(_ _)m
2009/10/7(水) 午後 3:45