『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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毛利 元次

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毛利元次は周防国徳山藩の第3代目の藩主

関ヶ原の戦いで西軍総大将となった安芸中納言こと毛利輝元の孫です!

寛文7年(1668年)11月18日に初代藩主毛利就隆(輝元次男)の4男として京都で誕生w

お母サンは父就隆の側室性雲院サンで幼名は「亀之助」ですw

兄は千代松丸・岩松丸・千寿丸と3人いましやが幼くして亡くなってます…

庶子(側室の子)だったんで家臣永井家の子として京都で育てられたんです…

初名を「永井賢富」といいその後は「永井賢充」と名乗ってます…

延宝5年(1677年)9歳の時に父就隆の計らいで家老として徳山藩に迎えられます!

延宝7年(1679年)9月12日に父就隆が享年77歳で死去します…

その後を正室の子である異母弟元賢が9歳で継ぐんです!!

元禄3年(1690年)5月21日に異母弟元賢が享年20歳で死去します…

異母弟元賢には跡継ぎがいなかったんで実際には異母兄なんだけど異母弟として

その養嗣子となり22歳で徳山藩毛利家の家督を継ぎます!

官位は従五位下・飛騨守ですw

この時に生年も幕府には寛文11年(1671年)と偽って届けてます…

ちなみに…この時に長府藩毛利家が徳山藩主後継者問題に介入し藩主に

長府藩系(秀元系(毛利元就の4男))の人物をつけようとした事件が起ってます!!

そんで父就隆は10数年間を江戸滞留で直接藩政を執れなくて

異母弟元賢も幼少で家督を継いでたんで元次が藩主となった頃は

老臣が藩政を牛耳り権勢を欲しいままにしてたんです…

このため「襲封」と「老臣」を廃し藩主親政を始めるんですよ!!

継嗣問題に絡んで「神村将監」と「桂民部」を退け両家の断絶を命じてます…

以前に『塩鉄論』を読んでこの書が経国済民に有益だと知り仲の良かった京都の

伊藤仁斎の子東涯に依頼して訓点を加えて刊行したりもしていますw

宇都宮遯庵・桂方直・長沼玄珍・林義端ら当代一流の学者を招き優遇もします!!

藩政にも大いに文教を取り入れ父就隆以来の制度を整え徳山の本町筋の

町名を定め城下町の発展にもたくさん努めたんですよ!

居館の横に学問所を兼ねた遊息場「棲息堂」を建てます!

『遠石記』『徳山府記』『徳山名勝』『徳山雑吟』も刊行してるんですよ!!

奥サン(正室)は宮川藩主関長政の養女(津山藩森長継の娘)ですw

第二婦人(継室)は府中藩主松平頼隆の娘サンですw

他にも蓮性院や良寿院など多くの側室がいたんですよw

元禄15年(1702年)8月16日に次男元尭が誕生しますw

宝永4年(1707年)10月13日に毛利宗家の長州藩主毛利吉広が34歳で死去します…

これにより輝元系が断絶した際に血筋的に最も宗家に近かったけど家臣永井氏の

養子となって毛利氏から離れてた時期があったんで後継者候補から外されます…

長府藩系(秀元系)の毛利吉元が毛利宗家の長州藩主となります!

ちなみに…これ以前に徳山藩主後継者問題の一件もあって今回の宗家相続問題で

徳山藩長府藩長州藩との確執が決定的なものとなったんです!!

宝永6年(1709年)4月4日に3男広豊が誕生しますw

正徳5年(1715年)6月6日に万役山事件が起こります!!

【万役山事件】とは西久米村の百姓喜兵衛とその長男惣右衛門・次男三之允が田んぼの雑草を採った帰りがけに昔植えておいた小松1本を切り取り田んぼの畦修理の為に持ち帰ろうとしたのを徳山藩山回足軽伊沢里右衛門が見つけて咎めたのが事件の発端です!そんで咎めた後に言い争いとなり里右衛門は喜兵衛の首を刎ねちゃいます!!長州藩代官井上宇兵衛は事件の顛末を長州藩に報告し徳山藩に詰問状を発したけどこれに応対した徳山藩代官米田儀兵衛は問題の場所が徳山藩領内と主張して譲らなかったんです…この時長州藩で政務を担当してた浦元敏と国司広通は事を穏便に解決しようと徳山藩重臣と縁故の深い奈古屋与左衛門(徳山藩家老奈古屋玄蕃の叔父)を特使として派遣したけど全く徳山藩側は謝罪の意思を示さなかったんです!そこで浦元敏は改めて徳山藩家老と交渉して解決策とし明らかに下手人と見られる里右衛門の死罪を要求したんです!でも…これもまた不調に終わります…その内に西久米村の百姓らは年来自分達の山だと信じてた山を徳山藩領と主張され非を喜兵衛らのみに帰して里右衛門に咎めがないのを不満とし一揆にも及びかねない形勢となったんです…長州藩は宍戸就延を特使として派遣し直接徳山藩主である元次に直接反省を促したんです!!でも…元次は依然として謝罪しようとはしなかったんです!これに対し徳山藩士奈古屋里人は強く元次を諫めたけど元次は聞き入れず徳山城下からの追放を命じちゃいます!!

この事件によって毛利宗家と全面対立します!!

正徳6年(1716年)春に参勤のために江戸に行きます!

この時に同じく参勤してた清末藩主毛利元平が長州藩家老毛利広政と共に尋ねて

最後の説得を試みようとするんだけどこれも拒否しちゃうんです!!

正徳6年(1716年)4月11日に長州藩主毛利吉元は幕府へ報告します!!

そんで元次に隠居を命じ長男元堯に家督相続を許すように願い出たんです!

老中阿部正喬井上正岑久世重之戸田忠真らは直ちに審議します!!

そんで幕府は宗家吉元の請願通り「元次の隠居」では済ませなかったんです…

裁定は「徳山藩の改易」でした…理由は「本藩への非礼」でした…

これにより身柄は新庄藩お預けとなるんです…

長男元堯と次男広豊・娘幸姫らは長州藩お預けとなっちゃうんです…

徳山藩領4万5千石は長州藩に戻されます…

これには長州藩主毛利吉元も予想外だったんで徳山藩再興を幕府に頼みます!!

また重臣奈古屋里人らが同じく徳山藩再興のため奔走したんですよ!!

享保4年(1719年)5月に次男元尭が3万石で徳山藩再興を許されますw

その後徳山藩は宗家である長州藩との関係を改善しつつ明治維新を迎えるんですw

でも…慣れない環境に体調を崩し流罪中に病気になっちゃいます…

享保4年(1719年)11月19日に配流先で享年51歳で死去します…

法号は「曹源院殿性海滴水大居士」です…

墓所は東京都港区愛宕の青松寺にあります…
元次は剛毅にして果敢・文武両道に秀でてたけど気性のとっても激しい人物だったみたいです!それに明敏で好学の聞こえが高く文化人として優れてて5代将軍徳川綱吉の教書講釈にもしばしば列席し詩文は上皇の上覧に入れた事もあったと伝えられてます!!
★☆★ちなみに…下画像は祖父毛利輝元の肖像画です!決して元次じゃありません!★☆★

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元次〜もとよし?もとつぐ?かな?^^;

長府は 独立しようとしたり 秀元のときから野心的だね

嫡流は 本来なら 毛利元次だよね

複雑な経緯で 寿命も縮むわ^^;;

藩再興が出来て良かった ポチ!

2010/1/13(水) 午後 9:30 [ - ]

読み方は「もとつぐ」ですwこの頃って実子だ養子だ庶子…娘婿だって血縁関係が複雑過ぎるんですよね…でも男子にて家名を存続させてなんぼだから必死だったんでしょうね…

2010/1/14(木) 午後 2:40 まるこ

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