水谷勝美は備中国松山藩の第3代目(最後)の藩主結城秀康の与力大名で関ヶ原の戦いの後に独立した水谷勝俊のひ孫ですw水谷勝俊は当時下野国で常陸国主佐竹義宣を牽制したりと活躍しました!ちなみに…「水谷」は「ミズタニ」と読まず「ミズノヤ」と読みます!!寛文3年(1663年)初代松山藩主水谷勝隆の長男勝宗の長男として誕生しますw寛文6年(1666年)父勝宗は京極高国改易時の丹後宮津城を守備します! 寛文12年(1672年)2月8日に4代将軍徳川家綱にお目見えします! 延宝4年(1676年)12月26日に従五位下・出羽守に叙任しますw 父勝宗は新田開発や水路の建設・城下町の建設等に尽力したんですよw そんで3年に渡り松山城の改修も行いこの時代に現存する重文の天守が完成したんです!!
奥サン(正室)は保内藩主松平頼隆の娘サンですw でも…2人の間に結局子供は出来なかったんです… ちなみに…義父松平頼隆は水戸黄門で有名な【水戸藩主徳川光圀】の実弟です! 延宝8年(1680年)5月8日に4代将軍徳川家綱が享年40歳で死去します…天和4年(1684年)父勝宗が外様大名から譜代大名に列せられます!!そんで江戸在府が長くなったんで藩政は勝美と家老鶴見良俊が担当します!! 元禄2年(1689年)閏正月14日に父勝宗の隠居により家督を継ぎますw 元禄2年(1689年)2月19日に父勝宗が江戸桜田屋敷で享年67歳で死去します…元禄2年(1689年)6月28日に初めて領地松山に入るんです!!父勝宗の政策を継承し民政・治水・土木に尽力し父勝宗同様“名君”と呼ばれますw 特に松山川沿岸の堤防は「水谷普請」と呼ばれたんです! 重臣達は急いで従兄弟水谷信濃守勝阜の長男勝晴で末期養子の届出をします! 幕府の許可が降りるのは決まってたんだけど…許可が降りる前に… 元禄6年(1693年)11月27日に末期養子勝晴が享年13歳で死去します…『末期養子の末期養子』は認められてないんで松山藩水谷家は改易となります…城召上にあたり赤穂藩主浅野内匠頭長矩が備中松山城の城受取役となります!! そんで1年半後に安藤対馬守重博が新城主として入城する迄は浅野家老大石内蔵助が 備中松山城の管理を行ってたんですよ! ちなみに…水谷家は弟勝時に3千石の旗本として名跡存続が許されてます!! |
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水谷って どこかで聞いた と思ったら
赤穂浪士の絡みだった(;^_^A
結城の与力以下は初見です
末期養子は残念でしたが家名存続出来て良かった〜(*´∇`*)
2010/2/16(火) 午後 7:56 [ - ]
徳川家と何らかの形で縁続きになると…何かしらの方法で家名存続が出来るって訳じゃないんですよね…関ヶ原以前から結城秀康の与力だった事もあるんですかねぇ…
2010/2/17(水) 午後 11:43
水谷氏は下館城主なので常陸の豪族では?
旗本としてはさらに500石加増され、御先手鉄砲組頭としての
役高1500石を扶持されたので、けっこうな上級旗本扱いですよね
2011/6/29(水) 午後 4:31 [ nice_guy ]