龍造寺高房は最後の肥前国佐賀藩の第2代目(最後)の藩主【肥前の熊】と称された肥前の戦国大名龍造寺隆信の嫡孫ですw龍造寺隆信は薩摩島津家と豊後大友家に並ぶ九州三強の一人ですw天正14年(1586年)に肥前国主龍造寺政家の長男として誕生しますw既に祖父隆信は天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで討ち死にしてました…元々父政家は祖父隆信に似ず暗愚で病弱だったんですよ…だから国政の実権は重臣鍋島直茂に握られてたんです!! ちなみに…鍋島直茂のお母サンは祖父隆信の叔母華渓サンなんですよ! 天正14年(1586年)より島津義久が九州統一を開始しこれに味方します! 薩摩島津家の侵攻を防ぎきれず父政家は島津義久に降伏します… この時に重臣鍋島直茂の意見で父政家は豊臣秀吉に媚を売ってたんですよ! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)の九州征伐で父政家は早々に豊臣軍に降伏恭順します!! そんで父政家は豊臣秀吉に謁見し許され肥前七郡38万石を安堵されたんです! 天正15年(1587年)5月6日に大友宗麟が豊後国津久見にて享年58歳で死去します…その直後に島津義久が豊臣軍に全面降伏し九州征伐が終わったんですよ!天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ!天正18年(1590年)小田原征伐が行われ後北条家が滅亡します! 天正18年(1590年)に父政家は病弱の為豊臣秀吉の命令で隠居します!! そんで…その後をわずか5歳で継ぐんですよ! でも…幼少だったんで佐賀藩政は豊臣秀吉の承認の下で重臣鍋島直茂と その長男勝茂に実質的に握られちゃってたんですよ… 当時の佐賀藩は「名を龍造寺家」が持ち「実を鍋島家」が握る暫定的な 二重統治体制となってて高房自身はあくまで『お飾り』だったんですよ… 父政家をはじめ龍造寺一門は肥前の支配権を龍造寺家に戻す為に高房が 成人した際に藩政を高房に戻す旨の請文を重臣鍋島直茂に書かせます! そんでその龍造寺家政権奪還作戦の一環として重臣鍋島直茂の養子となります!! 実は…父政家は実子の高房じゃなくて… 重臣鍋島直茂に家督を譲ろうとしたって噂も当時あるんですよ… 天正20年(1592年)からの朝鮮出兵に重臣鍋島直茂が名代として渡航しますw ちなみに…実際龍造寺家としては実質兵役を課されてなかったんですよ…って事は…もっとぶっちゃけると大名として認められてなかったって事なんですよ…でも父政家は気付いてなかったんです…
この朝鮮出兵を経て龍造寺家臣団が鍋島直茂を一層支持し出すようになります… 文禄2年(1593年)8月3日に豊臣秀頼が誕生します!! 文禄4年(1595年)7月15日に豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日に足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が享年63歳で大坂城で死去します…慶長4年(1599年)2月に前田利家と徳川家康の対立が一時激化しています!!その後鍋島直茂は徳川家康に肩入れするようになったんです! 慶長4年(1599年)閏3月3日に五大老前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日に五奉行石田三成襲撃事件が勃発しています!慶長5年(1600年)7月17日に石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで義兄勝茂は西軍に属します! そんで伏見城攻めや伊勢安濃津城攻めに参加し西軍主力として行動します! でも関ヶ原本戦には参加しなかったんです! 慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦で東軍が大勝利します!!慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…この時に養父直茂が裏で工作し柳川城主立花宗茂を討伐し挽回を図ります!!戦後その功績により旧領を徳川家康に安堵されたんですw でも…実質的に鍋島家が実権を握る事は変わらなかったんです… 逆に鍋島家の肥前支配はより強固なものとなっちゃったんです… 奥サン(正室)は養父直茂の孫娘瑞光院サンで従五位・駿河守・諸大夫に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生まれて来るんですよ… 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長12年(1607年)3月3日に江戸桜田屋敷で奥サンを刺殺します!! そんで自らも絶望してたんで自殺しようとするんです!! でも…家臣がこれを寸前で食い止めたんで自殺は未遂に終わります… だけど…傷は想像以上に深かったんです… そんで奥サンの亡霊にも悩まされるようになり次第に精神を病んでいきます… そんでまた自殺を図ろうとしちゃうんですよ… 息子の死にショックを受けて元々病弱だった父政家も体調を崩し… 慶長12年(1607年)10月2日に父政家が肥前にて享年51歳で死去します…息子季明と実弟主膳がいたけど2人とも幼かったんで幕府から無視されます…そんで祖父隆信の弟信周や長信らも鍋島家への移譲を黙認します… これを幕府は支持し義兄勝茂が佐賀藩を正式に継承するんです! 以後鍋島家は佐賀藩主として明治維新を迎えています! このような一件からその後有名な【鍋島化け猫騒動】なんかが生まれたんです!
★☆★ちなみに…下画像は祖父龍造寺隆信の肖像画です!決して高房じゃありません!!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw |
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ひゃー5歳で家督相続!!
昔はすごかったんですねww
記事を読んでて「昭和に生まれててよかったな」って思いますww
短くも波乱に満ちた人生ですね。
2008/7/4(金) 午前 8:06 [ kag*tor*15*9200* ]
昔は今と違って20歳で成人じゃなくて数え15歳で元服してました!!元服式は今で言う成人式ですwだから昔の5歳は今の5歳よりしっかりしてたかもしれませんね…本当に「昭和に生まれててよかったな」とまるこも思いましたw
2008/7/7(月) 午後 1:47
はじめまして、流れ流れでやって来ました。とても詳しくて大変に勉強になります。龍造寺隆信も今川義元同様に肥満体で足が短くて馬にも騎乗出来なかったから輿に乗ってたという話を聞いた事があります。どちらも元は出家してて家督を継ぐ際に帰俗してたりと似た境遇ですよね。
2008/7/9(水) 午後 8:54 [ Tatsu0no01 ]
Tatsu0no01サン>コメント有難うございますw実際容姿がどうであったかは不明ですが今川義元公と似た境遇である事は間違いないです!!
2008/7/10(木) 午後 2:17
トラバありがとう〜〜〜今週忙しくて全然ブログできなかった^^;;
あっちにも返事したけど 村中本家が竜造寺で 水ケ江系が龍造寺です
会津系は現在東京にいるそうですが 佐賀の龍造寺(明治後複姓)とは交流はないそうです
明日 記事に改めて書くので それともトラバしますね^^
2010/1/10(日) 午前 10:42 [ - ]
高房は 直茂の願いで 2代将軍の直臣になってるから
鍋島様は なんとか高房を一人立ちさせようとしてたみたい
頑張って 2代様に気に入られれば 1〜2万石でも大名になれたかもだったのに
息子の方も 大人しくしていれば 鍋島家から保護は受けられただろうし
うまくいけば政家の隠居料の一部でも継承できたかもね
やはり2つも高家で残った 今川さまは 素晴らしいなぁ^^
2010/1/10(日) 午前 10:51 [ - ]
勝茂って 再婚なんですよね〜
前妻と死別か離別か ど〜〜してもわかんなかった _| ̄|○ がく
初婚は 戸田勝隆(伊予大洲7万石)の娘で秀吉の養女 子供無し
実家は秀吉時代に無子断絶してるし 兄は大谷と関が原で戦死だから
娘が鍋島で どんな運命を辿ったか 調べ切れなくて(トホホ)
地元で地史とか鍋島の菩提寺に記録あるか じ〜〜くり調べないと無理みたい〜〜
司馬さんがね街道を行く(四国編)で戸田が暴政だったって書いてるの
でも 司馬さんが 何をソースにしてるか謎〜〜
だから戸田暴政説は 作家のオリジナルに近いんじゃないかって言われてる
今日は 外出するんで 明日 竜造寺アップします〜
(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆
2010/1/10(日) 午前 10:58 [ - ]
村中本家が竜造寺で水ケ江系が龍造寺!!有難うございまーすwド忘れしちゃって…保科媛サンは鍋島好きだったんですよね!戸田勝隆の弟は大谷吉継の盟友で出来た人物なんですけどね…竜造寺楽しみにしています!!
2010/1/10(日) 午後 3:39
記事アップしながら 思いついたけどね
勝茂の子供って急逝してて2代目藩主は孫だから
この時点で 何事もなければ
高房Jrを勝茂の養子にして 竜造寺と鍋島を統合する ウルトラCが可能だったと思うの
もしくは隠居政家+高房の領地足して支藩にして 血統維持とかね
直茂が 孫娘を養女として嫁がせたのは その可能性も視野に入ってると思う
2代さまに気に入られ分藩コースより 実現性は高い
高房が 早まったなぁ と思う
実際鍋島では 竜造寺の名前に ず〜と遠慮して家臣の粛清も しなかったくらいだもん
てことでトラバします〜・:*‥…━━━☆
2010/1/11(月) 午後 2:41 [ - ]
やっぱり変なとこで「誇り(驕り)」を前面に出し過ぎたんでしょうね…時代の流れを見極められなかったんですよね…下克上の戦国でしっかりと主を主として敬ってるのって実際鍋島家位ですよね!!それに龍造寺家一門自体も鍋島への権力委譲を黙認してますからねぇ…もう少しの遠慮と感謝の気持ちがあれば絶対に家名を存続出来たと思います…残念ですね…
2010/1/11(月) 午後 11:27