武田信吉は常陸国水戸藩の最初で最後の藩主江戸幕府開祖である徳川家康の5男なんですよw【甲斐源氏武田宗家】の第23代目の当主でもあるんですよ!!天正11年(1583年)9月3日岡崎城主徳川家康の5男として浜松で誕生しますw幼名は「福松丸」でお母サンは甲斐武田氏家臣秋山虎泰の娘於都摩サン(下山殿・妙真院)ですw でも…生まれながらに病弱だったんですよ… 父徳川家康が武田家旧臣の懐柔と武田信玄を尊敬してた為に側室に武田家の血族を求めたんで表向きは第19代目武田宗家当主武田信玄の末娘として第21代目武田宗家当主穴山信君(梅雪)の養女となり徳川家康に輿入れしたんです!
肝心の武田家は天正10年(1582年)に織田信長によって行われた武田征伐で滅亡し穴山信君が宗家を継ぐんだけど…本能寺の変直後の混乱で天正10年(1582年)6月2日に穴山信君(梅雪)は享年41歳で死去しています…そんでその長男信治に武田氏名跡を継承させてました!!天正12年(1584年)3月の小牧・長久手の戦いが起きます! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が太政大臣に就任しますw 天正15年(1587年)6月7日に武田信治が享年16歳で死去しちゃいます…そんで武田宗家の断絶を惜しんだ父家康により幼名を「万千代丸」と改名されます!!そんで故穴山信君(梅雪)の奥サン見性院が後見人となり武田宗家を4歳で継承しますw 穴山氏旧領の河内領の他江尻領・駿河山西・河東須津を与えられますw されに元服して「武田七郎信義」と名乗らせられたんです!! ちなみに…見性院は武田信玄の次女で後に3代将軍徳川家光の異母弟保科正之を養育します!! 天正18年(1590年)小田原征伐が行われ後北条家が滅亡します!! その後父家康の関東移封に従って下総国小金城3万石を与えられ「松平姓」に改名しますw そんで豊臣秀吉の奥サン(正室)高台院の甥木下勝俊の娘サンと結婚しますw これは父家康の豊臣秀吉への配慮もあったんです… 天正19年(1591年)母妙真院が亡くなったんで見性院が養母となります! 文禄2年(1593年)に下総国佐倉10万石を与えられますw 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで江戸城西ノ丸留守居役を務めます! 慶長7年(1602年)常陸佐竹家移封に伴い常陸国水戸25万石に封ぜられます! そんで再び「武田姓」を名乗り旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を召抱え武田家を再興します! 墓所は茨城県那珂市瓜連にある常福寺で法名は「浄巌院殿英誉善香崇厳」です… 後に甥にあたる水戸藩主徳川光圀により瑞龍山に改葬されたんです… 子供がいなかったので武田氏は再び断絶しちゃいます… その後水戸藩は異母弟頼宣が入り後に同じく異母弟頼房が入部し水戸徳川家祖となるんですw 信吉の家臣の多くは水戸徳川家に仕えたんですよ! ちなみに…武田宗家は…武田信玄の次男竜芳(海野信親)は盲目で出家してたんで武田家滅亡の難を逃れたんですよwその子孫は竜芳の子武田信道が大久保長安事件に巻き込まれて伊豆大島へ流罪する不幸もあったけどその子信正の代で許されて元禄14年(1700年)に幕臣となり高家として仕えたんですよ!
★☆★ちなみに…下画像は養父穴山信君(梅雪)の肖像画です!決して信吉じゃありません!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw
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死因は湿瘡って どんな病気?(@@)
家康は ほんと武田好きだよなぁ
この側室の話には 替え玉伝説があるの
家康が 松姫様(見性院)を側室にしようとしたので
武田の血が蹂躙されるのを嫌った旧武田家臣が
穴山梅雪の弟の妻を身代わりに差し出した
身代わりの側室は下山殿(殿の敬称がついたのは この側室だけだったらしい)と呼ばれ
武田信吉を産んだ
徳川には旧武田家臣が大量にいるんで 現実問題として身代わりなんて不可能
まぁ一見して穴だらけで完全に伝説なんだけど
旧武田家臣の中には 名目でも「武田の姫君」が
側室になるのがイヤだった人もいたんだなぁって空気がわかる話^^
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2010/3/10(水) 午後 8:27 [ - ]
「湿瘡」ってヒゼンダニの寄生による皮膚感染症なんですよ…(恐)激しい痒みを伴う病気で現在は完治出来るんですが…当時は場合によっては「死」に至るかなーり厄介な病気だったみたいです…
2010/3/10(水) 午後 10:16
それは現代で言うところの、かい癬ですね。
その中でも、重篤なやつを、ノルウェーかい癬といいます。
2011/8/31(水) 午後 0:34 [ 匿名 ]