『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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吉良 義周

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吉良義周は三河国吉良荘45百石の第4代目(最後)の高家旗本

祖父は【忠臣蔵】の敵役で有名な高家肝煎吉良上野介義央ですw

実父は第4代目の【米沢藩主上杉綱憲】ですw

高家は1万石未満の石高だけど10万石超格の大名と同格だったんです!

貞享2年(1685年)2月22日に米沢藩主上杉綱憲の次男として誕生しますw

お母サンは側室お要の方サンで幼名は「春千代」なんですよw

ちなみに…生れながらの虚弱体質だったんです…

貞享2年(1685年)9月1日に叔父吉良三郎が幼くして死去します…

そんで吉良家には跡継ぎがいなくなっちゃうんですよ…

元々父綱憲は祖父吉良義央の長男で祖父義央の奥サン(正室)が第3代目米沢藩主上杉綱勝の妹だった関係で跡継ぎのいなかった米沢藩上杉家に養子入りし家督を継いでたんですw

元禄2年(1689年)12月9日に吉良家へ養子に出る事が決定します!

そんで「上杉春千代」から「吉良左兵衛義周」と改名させられます!!

元禄3年(1690年)4月16日に米沢城から江戸へに移るんです!

この時わずか5歳だったんですよ!!

元禄9年(1696年)11月21日に5代将軍徳川綱吉に初めて拝謁しますw

元禄11年(1698年)9月6日江戸の大火で鍛冶橋吉良邸が消失します…

そんで養父義央と共に呉服橋に吉良邸を再建し引っ越します!

ちなみに…大火の際に大名火消しとして消防指揮をとってたのは浅野長矩です…

元禄14年(1701年)2月4日養父義央が勅使饗応役の指南役に任命されますw

赤穂藩主浅野長矩と伊予吉田藩主伊達宗春が勅使饗応役だったんです!

実は…浅野長矩を勅使饗応役に推薦したのは養父義央自身だったんです!!

理由は今から18年前の天和3年(1683年)2月6日にも浅野長矩は勅使饗応役に

任命されてて養父義央がその時も指南役だったんですよ!

そんで養父義央の指導の元で卒なく役目をこなした実績を買ってたんですw

言うなれば「浅野長矩は養父義央の愛弟子」だったんですよ!

だから平行して幕府から朝廷への年賀の使者として京都に行かなくちゃならないんで

その不在の間に準備を進められるのは正に愛弟子の浅野長矩だったんです!

でも…養父義央は体調を崩し予定の2月29日迄に江戸に戻らなかったんです…

ここからが養父義央の誤算だったんです…

2度目の役目拝領で浅野長矩は過去の経験を元に饗応の準備をしてたんです…

でも18年前と今回で変更になってる点がいっぱいあったんです…

養父義央が傍にいれば問題無かったんだけど儀礼や予算面で手違いが生じます!!

そんで養父義央が江戸に戻った時点で時間も足りず慌てて改めるんです!

養父義央も「18年の歳月」から来る手違いを認め特別責める事もなかったんです…

でも…浅野長矩にしてみると全てを否定されてる様な屈辱感があったんです…

養父義央にしても多少のイライラ感は出てたのかもしれませんけど…

元禄14年(1701年)3月14日養父義央が浅野長矩から殿中刃傷を受けます!!

養父義央は一命は取りとめたけど浅野長矩は即日切腹となります!!

元禄14年(1701年)3月26日養父義央が高家肝煎職の辞職を願い出ます!

旧赤穂藩士が敵討ちするって噂が流れ近所に住む阿波富田藩蜂須賀家等から

トバッチリを喰う事への苦情が幕府に申し出されちゃいます…

元禄14年(1701年)8月に幕命で屋敷を呉服橋から本所に移されます!

元禄14年(1701年)12月12日に養父義央が隠居します…

そんで16歳で吉良家の家督を相続して表高家に列したんですw

官位は従四位下・侍従ですw

元禄15年(1702年)赤穂浪士討入りの噂が絶えなかったんで実父綱憲が

養父義央を米沢で引取る旨を幕府に願い出て認められます!

元禄15年(1702年)12月14日養父義央が江戸で最後の茶会を開きます!

そんで茶会は無事に終了したんですwそんで…その深夜…

元禄15年(1702年)12月14日赤穂浪士47人が吉良邸を襲撃します!!

義周自ら薙刀を持って応戦したんですよ!

でも…赤穂浪士不破数右衛門に顔と背中を斬られちゃいます!!

そんで目に入った血で動転しそのまま気絶しちゃったんですよ!

だけど…「吉良義周」と気付かれなくて放置されて首は取られずに済んだんです…

でも…養父義央は抵抗の甲斐なく享年62歳で死去します…

事件後すぐに家臣糟谷平馬を使者にして老中稲葉正通邸に届け出てます!!

実父綱憲もすぐに藩軍を率いて赤穂浪士討伐を行おうとします!

でも父綱憲は幕府老中からの出兵差止め命令で泣き寝入りするんです…

元禄16年(1703年)2月4日に幕府評定所に呼び出されます!!

そんで当日の対応は「不届き」として吉良家改易に処されるんですよ…

そんで身柄は諏訪藩主諏訪忠虎にお預けを言い渡されたんです…

ちなみに…同じ日に赤穂浪士達が切腹しています…

幕府としては喧嘩両成敗のつもりだったと思われるんですよ!

元禄16年(1703年)2月11日諏訪藩士130名に護送され江戸を出発します!

でも…同行を許された家臣は左右田重次と山吉盛侍の2名だけです…

諏訪藩に着いた後は高島城南丸に幽閉されるんです…

だけど元高家肝煎の子息という事で諏訪藩士達は「左兵衛様」と敬称したんですw

喫煙も許され衣服や蚊帳も与えられ不自由のない幽閉生活だったんですw

でも…自殺防止の為かみそりとか刃物は与えられなかったんです!!

また義周の前へ出る諏訪藩士も帯刀を禁止されてたんです!

元禄16年(1703年)8月21日実父綱憲が隠居し実兄吉憲に家督を譲ります!

高島城へ到着した後は生来の虚弱体質もあり体調を崩します…

宝永元年(1704年)6月2日に実父上杉綱憲が享年42歳で死去します…

宝永元年(1704年)8月8日に養母(祖母)梅嶺院が享年61歳で死去します…

宝永2年(1705年)10月からは完全に寝た切りになっちゃいます…

宝永3年(1706年)1月19日に危篤に陥ります…

宝永3年(1706年)1月20日に配流先にて享年21歳で死去します…

宝永3年(1706年)2月4日に幕府検死役石谷清職の検死を受けた後に

地元の法華寺に葬られたんです…

ちなみに…遺臣の左右田・山吉の両名は「石塔を自然石で立てて欲しい」と

代金3両を法華寺に納めてるんです…

跡継ぎのいなかった高家吉良宗家はここに断絶しちゃうんです…

でも享保17年(1732年)に養父義央の弟の孫義孚が家名再興を許されてますw
★☆★ちなみに…下画像は養父(祖父)吉良義央の木像で決して義周じゃありません!★☆★

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基本的に【アンチ忠臣蔵】のまるこなんで…吉良贔屓目の記事になっちゃいましたが…そこは多めに見て下さいませw

2008/8/21(木) 午前 1:25 まるこ

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気持はよく分かります。そんなに気を遣わなくても文句を言う人は
誰もいませんよ。

2008/8/22(金) 午後 2:06 [ kag*tor*15*9200* ]

お気遣い有難うございますw

2008/8/23(土) 午後 7:51 まるこ

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広く一般に流布されている吉良像(いわゆる赤穂サイドからの悪役イメージ)が強かったので、色々勉強になりました。播州浅野家は、今でいう「キレる」家系だったとは聞いていました。

2008/8/24(日) 午前 10:13 a_jfk_of_kg

どうしても一般的な吉良義央の評価を覆して再評価してほしいって思いが強くて…

2008/8/27(水) 午前 9:27 まるこ

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吉良って歴史的に完全に悪役にされてしまって、上杉乗っ取りの為に上杉綱勝を毒殺したとか、亀井 茲親をいじめまくったとかいろいろ言われてるんですが、よく調べてみると、意外にも悪い人では無いという文献が出てくるみたいです(そもそも上杉綱勝毒殺説なんてかなり怪しいですし・・・)

領主としても素晴らしかったようです。新田開発や洪水被害を防ぐための堤防を築いたりなど、優れた治世を行っていたようです。三州に三千二百石と上州に一千石の知行地を持っていたんですが、吉良家改易後も忠臣蔵の公演が拒否されるぐらい両地の領民には評判が良かったようです。

2008/9/29(月) 午後 8:29 [ koj*re*t ]

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>高家は1万石未満の石高だけど10万石超格の大名と同格だったんです!

40歳で従四位上少将にまでなってますからね。高家においても別格ですね。中将も与えられそうだったんですが、吉良自身が断ったそうです。

ちなみに
従四位上少将クラスの大名というと、細川・毛利・黒田・浅野ですから、外様大藩クラスですね。親藩では津山松平と同じ官位ですからとてつもないです。旗本ではぶっちぎりでしょう。

ちなみに従四位上中将クラスの大名となると
外様:島津・伊達
親藩:越前松平・高松松平

という感じなので、もうとてつもなく凄いです。

ちなみに時の権力者柳沢吉保でも最終的な官位が同じ従四位上少将だったので、官位的には少し吉良が上だったぐらいです。(なんせ基本的に老中でさえ従四位下なので、吉良及び高家の官位は高かったといえます)。

ヤバイなんだか沢山書き過ぎてしまった・・・。

目茶目茶盛り上がりながらブログ拝見させてもらっています。

他の記事も覗いてきます。。。

2008/9/29(月) 午後 8:30 [ koj*re*t ]

長いコメも大歓迎ですwでも本当に吉良家は本来大名じゃないんで…悩んだんですが下手な大名よりも格が上なんでこのカテゴリで登場させちゃいました!!当時の官位官職って本当に重みのあるものだったんですよね…

2008/10/2(木) 午後 3:26 まるこ

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織田信長の側室の一人、土方さんが生んだ信長の子も、本能寺の変の時幼児で、のちに「高家」というものになったようですが、位は高いけど貧しかったようですね。
「家柄で飯食えねぇ」は、今も同じですけど( ´Д`)=3

2008/11/25(火) 午後 2:47 留守番タロ子

高家だった織田家は2家あるけど…どっちの系統なんでしょうか…すいません…勉強不足です…

2008/11/27(木) 午後 11:22 まるこ

高家になった織田家あるけど 思い出せないアウチ!


吉良さんは どうみても被害者だよなぁ

忠臣蔵ファンだったけど 歴史を知るようになってからは さほど観たいとは思わなくなった(^_^;)


吉良家は 家康の正室の繋がりで 義理の叔父だか大叔父だったはず 年は家康の七つ上

2010/4/5(月) 午後 7:20 [ - ]

家康が 人質として織田から今川に行く船の中で 同じく今川へ行く吉良と出会って 仲良しになったみたい

大人になったら 吉良は家康の下で 生き残る

徳川家本貫の地 三河の名家だし個人的な繋がりで別格だったと思う


家康が三河守任官の時は 近衛前久の猶子になったそうだけど

その辺の カラクリは 媛のレベルじゃ まだ理解力ないです(^_^;)

2010/4/5(月) 午後 7:29 [ - ]

まるこは【アンチ忠臣蔵】なんで吉良贔屓なんですよw最近は年末の忠臣蔵は全く興味無いですね…ちなみに…高家になった織田家は織田信長の次男信雄の系統なんですよ!

2010/4/6(火) 午後 10:49 まるこ

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