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幼名は「甚三郎」ですw 元々祖父朝倉宣正は3代将軍徳川家光の実弟徳川忠長の附家老だったんだけど… 寛永9年(1632年)に徳川忠長に連座して改易となってるんですよ… その後朝倉家は大老土井利勝に招かれて古河藩士として仕えてたんです… でも…寛永14年(1637年)2月6日に祖父宣正は享年65歳で死去しています…もし徳川忠長事件がなければ…幕閣中枢にいた可能性もあるんです!慶安4年(1651年)4月20日に3代将軍徳川家光が江戸城にて享年48歳で死去します…寛文3年(1663年)正月6日に叔父である北条藩主屋代忠興が享年45歳で死去します…跡継ぎがいなかったんで婿養子として屋代家の家督を16歳で継ぐんですw奥サン(正室)は屋代忠興の養女サンですw 寛文3年(1663年)12月に従五位下・越中守に叙任し大坂加番となります! 延宝8年(1680年)5月8日に4代将軍徳川家綱が江戸城にて享年40歳で死去します…延宝8年(1680年)6月26日に鳥羽藩主内藤忠勝が芝増上寺殺傷事件が起こします!!延宝8年(1680年)12月9日に大老酒井忠清が失脚します! 貞享元年(1684年)8月28日江戸城内で大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に暗殺されます! 元禄5年(1692年)2月に100人組頭となりますw 元禄6年(1693年)8月には大番頭となるんですw だけど…役職に伴う出費の増加で藩財政が窮乏化しちゃうんですよ!! 元禄14年(1701年)3月14日に浅野内匠頭長矩による殿中刃傷事件が発生します! 元禄15年(1702年)12月14日に「元禄赤穂事件」が起きます!!!! 宝永6年(1709年)1月10日に5代将軍徳川綱吉が享年63歳で死去します…正徳元年(1711年)に全ての職を辞して出費を抑えようともしてるんですよ!!川井藤左衛門を登用して本格的な藩政改革を任せるんです! 正徳元年(1711年)9月に川井は「年貢増徴」を主とした財政再建を計画発表します! まさに『痛みを伴う構造改革』だったんです! でも…領民の多くが反発して抗議行動に走り出すんです!! 正徳元年(1711年)11月には反対派の一部が江戸藩邸や老中秋元喬朝に直訴します!! 正徳元年(1711年)11月26日に危機感を抱いた川井が反対派農民の代表者3名を 捕らえて死罪としさらにその妻子を追放して家財を全て没収するという強硬手段を断行! これに対して農民側は勢いを強め再度幕府に訴え出るんです!!!「万石騒動」です! この事で幕府の知るところとなり幕府が介入してくるんです! 正徳2年(1712年)7月22日に幕府の裁断により失政を咎められて改易となります… そんで屋代家は旗本としてその後も存続したんですw 正徳4年(1714年)2月10日に享年68歳で死去します…墓所は東京都文京区本駒込の吉祥寺です…屋代家は源義仲配下の武将として知られる村上為国の子明国の孫家盛が屋代郷に住して「屋代家盛」と名乗った事に始まります!その後は甲斐武田氏に仕えてたんですが武田氏滅亡後は織田信長の部将森長可の支配下に入り与力となったと言われてます!!でも…本能寺の変後は上杉景勝に臣従し天正10年(1582)松代の海津城に入った村上国清(村上義清の子)の副将として屋代秀正が二の丸に入ったと記録に残ってます!でも…屋代氏の離反が村上氏没落の一端だった事もあって両者の関係は良好とは言えず天正12年(1584)に屋代秀正は上杉氏から離反し徳川氏に臣従します!その際に村上国清ら上杉勢に攻められ荒砥城を支えきれず徳川氏の下に身を寄せる事になったんです! ★☆★ちなみに…下画像は吉祥寺にある屋代家累代のお墓だと思います…★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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なんだか少し同情・・・きっと新参だから あちこち挨拶廻りで大出費だったんだろうなぁ
代々の お役なら うまく立ち回れたかも・・・
直訴は死罪なのに よほど強引だったんですね
とりあえず家名存続できて良かった^^
(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆
2010/5/2(日) 午後 7:34 [ - ]
祖父朝倉宣正って越前朝倉氏の庶流なんですよねw『痛みを伴う構造改革』って後の世に評価されるべきもので…何か現在の日本に似てますよね…
2010/5/2(日) 午後 10:43