『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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松平 忠輝

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松平忠輝は越後国高田藩の最初で最期の藩主

【徳川家康】の6男で【伊達政宗】の娘婿ですw

そんで附家老に【皆川広照】【大久保長安】らがいたんです!

天正20年(1592年)1月4日に徳川家康の6男として江戸城で誕生しますw

幼名は「辰千代」でお母サンは父家康の側室茶阿局ですw

でも…生後直後に父家康は母茶阿局の身分が低かったんで喜ばなかったんです…

そんで父家康は家臣に「捨てよ!!」と冷酷に命じたと言われてるんです…

不憫に思った父家康の側近本多正信が奔走して養育先を探したんです!!

そんで下野国栃木3万5千石の皆川広照に預けられ養育される事になります!

慶長3年(1598年)に父家康と初めて対面しますw

でも…父家康は長兄秀康との対面の時と同様に忠輝の醜い顔を嫌ったんです…

慶長3年(1598年)8月18日に太閤豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…

慶長4年(1599年)1月11日に同母弟松千代が享年6歳で死去します…

そんでその跡を受け長沢松平家の家督を7歳で相続しますw

その際に武蔵国深谷藩1万石を父家康より拝領しますw

慶長5年(1600年)9月に関ヶ原の戦いが起こりますw

慶長7年(1602年)12月に元服し下総国佐倉藩5万石に加増移封されますw

その際に従五位下・上総介に任官叙任し「上総介忠輝」と名乗りますw

織田信長をリスペクトしてたんで信長と同じ「上総介」を生涯名乗ったんです!

慶長8年(1603年)2月12日に父家康が征夷大将軍に任命されます!

慶長8年(1603年)2月に信濃国川中島藩12万石に加増移封されますw

皆川広照や大久保長保らが附家老となってますw

ちなみに…普段から少々粗暴な一面があったんで皆川広照が口煩かったんです…

慶長10年(1605年)に父家康の命令で豊臣秀頼と面会して意気投合します!!

慶長10年(1605年)4月16日に父家康が兄秀忠に将軍職を譲ります!

従四位下・左近衛権少将に叙任しますw

慶長11年(1606年)仙台藩主伊達政宗の長女五郎八姫と14歳で結婚しますw

慶長14年(1609年)皆川広照らが忠輝の行状を幕府に訴え出るんです!

だけど…逆に皆川広照らは失脚し改易させられちゃうんですよ…

慶長15年(1610年)に越後国高田藩主に任じられますw

旧領の川中島12万石と併合し合計75万石の大大名となるんです!!

海外との交易にも興味を持ってたんですよ!そんで武術を好み茶道・絵画・薬学に通じてたんですwこれは義父伊達政宗の影響もあったと言われていますwちなみに…洗礼を受けキリスト教を信仰してたって噂もあります…でも一般的にかなり粗暴だったとされる忠輝像は全てが正しいとは言い難いんです!

慶長18年(1613年)4月25日に附家老大久保長保が享年69歳で死去します…

慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起こります!!

慶長19年(1614年)に幕命により新たな居城高田城が築城されますw

これは義父伊達政宗ら13家の大名の助役で築城されたんですw

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で江戸留守居役を命じられます…

慶長19年(1614年)に長男徳松が誕生します…お母サンは側室お竹の方です!!

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では出陣してます…

でも…この時大和国側から大坂を攻る総大将を命じられたけど遅参します…

さらに…進軍中に近江守山で軍列を追い越したとし兄秀忠直属の旗本2名を

「無礼」だとして一方的に斬り殺しちゃうんですよ!!

これには父家康はもちろん兄秀忠も激怒しちゃうんです!!

結局は出撃の時期を逸して戦功を立てられず仕舞いとなるんです…

一時は豊臣秀頼に協力し幕府軍を攻撃するって噂も流れたんですよ…

父家康や兄秀忠に謝ろうとするけど…一切面会してもらえなかったんです…

元和2年(1616年)4月17日に父家康が駿府城にて享年74歳で死去します…

その際に兄秀忠・弟義直・弟頼宣・弟頼房らは枕元に呼ばれたんですよ…

でも対面は許されず父家康の死に立ち会う事が出来なかったんです…

元和2年(1616年)7月6日に兄秀忠から改易を命じられます…

理由は大阪の陣での不手際でした…

そんで伊勢国朝熊に流罪とされちゃうんです…

長男徳松は岩槻藩主阿部重次預りとなったんです…

でも…岩槻藩内では待遇はとっても悪いものだったんですよ…

妻五郎八姫は強制的に離婚させられて仙台に戻ってしまいます…

元和4年(1618年)には飛騨国高山藩に移されます…

元和7年(1621年)6月12日に母茶阿局が死去します…

寛永3年(1626年)には信濃国諏訪藩に移されちゃうんです…

寛永9年(1632年)1月24日に兄秀忠が駿府城にて享年53歳で死去します…

寛永9年(1632年)に長男徳松が配流先の岩槻藩にて享年18歳で死去します…

死因は焼死で岩槻藩内での冷遇に耐え切れずの自殺なんです…

寛永13年(1636年)5月24日に元義父伊達政宗が享年70歳で死去します…

寛永14年(1637年)10月25日に島原の乱が勃発します…

慶安4年(1651年)4月20日に甥の3代将軍家光が江戸城にて享年48歳で死去します…

寛文元年(1661年)5月8日に元妻五郎八姫が仙台城西館にて享年68歳で死去します…

寛文11年(1671年)に伊達騒動が起きます!

延宝8年(1680年)5月8日に4代将軍徳川家綱が江戸城にて享年40歳で死去します…

延宝8年(1680年)6月26日に鳥羽藩主内藤忠勝が芝増上寺殺傷事件が起こします!!

延宝8年(1680年)12月9日に大老酒井忠清が失脚します!

天和3年(1683年)7月3日に幽閉先の諏訪高島城南の丸にて享年92歳で死去します…

墓所は山梨県諏訪市の貞松院です…

戒名は「寂林院殿心誉輝窓月仙大居士」です…
ちなみに…徳川宗家より赦免されたのは死後300年後の昭和59年(1984年)7月3日なんですよ!菩提寺である貞松院の住職山田和雄サンが300回忌での赦免を思い立ち徳川宗家当主徳川恒孝サンに願い出て実現したんです!!仏前への奉告は貞松院の檀信徒の都合などで昭和62年(1987年)10月24日に行われたんですよw
★☆★ちなみに…下画像は松平忠輝本人の肖像画なんですよ!★☆★

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松平忠輝も、数奇な運命ですね。とにかく父の家康と対立し

結局家系図からも外されるたのは、なんか気の毒ですね。

それから、高島城の写真とても綺麗です。 ポチします。

2008/10/6(月) 午前 7:28 [伊 達 政 宗]

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ついに「松平忠輝」公 登場ですね。
「憎まれっ子、世に憚る」といいますが。
それを地でいくような人生だったんですね。

2008/10/6(月) 午後 5:20 [ kag*tor*15*9200* ]

家康公は茶阿局を溺愛した割にその子供への仕打ちは冷酷です。
徳川宗家と和解したのが300年後とは。でもこんな冷遇され妻や子供と引き裂かれた人生であっても92歳の天寿をまっとうしたのは執念なのか、悟りなのか。なんとなく凄みがありますね。

2008/10/6(月) 午後 10:41 ゆーくんままま

浅野殿>実は徳川家康と松平忠輝は和解してたって噂もあるんですよ!!その根拠となったのが「野風の笛」と言われる笛の存在です!この笛は織田信長⇒豊臣秀吉⇒徳川家康と受け継がれた物とされてて「天下人の象徴」とも言われた笛を徳川家康は母茶阿局を通して忠輝に渡したと言われてるんですよ…でも結局は真実は謎ですが…

2008/10/8(水) 午前 8:27 まるこ

松平忠輝はこのカテゴリにはなくてはならない存在なんで!!それにしても本当に長生きしましたよねw忠輝の器量は同じく徳川家康に嫌われていた結城秀康と同様に秀忠以上で優れてたみたいですよ!

2008/10/8(水) 午前 8:29 まるこ

家康には「衆道」好きな一面が当初あったんで…綺麗好きなんでしょうか…92歳の天寿をまっとうできたのはもしかして父家康同様に健康オタクだったのかもしれませんねw

2008/10/8(水) 午前 8:36 まるこ

様々な理由があって、さらに現在とは時代が違うにせよ『捨てよ』って酷い話ですよね。

確かに家康の息子の中で嫌われた2人、秀康・忠輝は器量が大きく荒々しい感じです。

家康はそんな性格が嫌いで産まれたばかりの赤ん坊であってもそれを見分ける力を持ってたんですかね(笑)

2008/10/8(水) 午後 2:49 マーハル

それなら尚更跡継ぎにと手元に残せばいいでしょうに…でも長男信康の一件や武田信玄の長男義信の件等もあって家康自身は自らの跡継ぎとなりうる有能な人材は身近に置かない方が良いと判断してたのかもしれませんね…まるこ的発想でしたw

2008/10/9(木) 午後 9:39 まるこ

川中島に残る忠輝の逸話投下

森忠政の後に入った忠輝

「子供の日」に村の子供たちが菖蒲の花の束で打ち合いをしているのを見た

「あれは何だ?」と家臣に尋ねると

家臣は 「子供の武運長久を願っての行事だそうです」

忠輝「花で打ち合いなど 手ぬるい 徹底すべし」と やり方を変えさせた

町人の子供VS村の子供で 武器は石VS薪の束 と本格的に模擬合戦をさせたため 死傷者が続出

だが殿様の決めたことなどで血なまぐさくなった子供の行事を止められず

領民たちには 子供の日が「合戦ごっこ」で我が子が生きて戻れるのと祈願する日になってしまった

忠輝が改易になり 次に入った真田真之によって その行事は中止になり

忠輝が定めた地名「松城」も「松代」と改名された

2010/5/6(木) 午後 5:18 [ - ]

逸話の真偽は 微妙なんだけど

どうも徹底してやらなきゃ気が済まない性格だったみたいだね

戦国ド真ん中に産まれていたら 意外に名君とか言われそうな感じ

でも どのみち家康とは性格が 合わないかもだなぁ

家康は 自分を凌ぎそうな子供は 遠ざけるイメージがある^^

(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆

2010/5/6(木) 午後 5:21 [ - ]

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なんか間違った気がして引き返したら やっぱり!

川中島というか 海津の逸話です^^;

真田真之って><;アウチ☆ 真田信之です〜酷い間違い

海津⇒森忠政が待城に改名⇒忠輝が松城に改名⇒信之が松代に改名です

信之が善政だったかというと けっこう重税だった記憶が・・・

まぁ あくまで逸話です^^;

2010/5/6(木) 午後 10:14 [ - ]

松平忠輝…絶対に生まれてくる時代が悪かったと思います…それに父親の愛情にも飢えてたんでしょうね…だから気を引こうと本意はなくとも突拍子も無い事をしちゃってたのかもしれません!だから尚更徳川家康に遠ざけられたんでしょうね…可哀相な御仁です…

2010/5/7(金) 午後 11:07 まるこ


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