富田信高は伊予国宇和島藩の最初で最後の藩主豊臣政権下の浅野長政謹慎後の五奉行代行【富田一白】の長男ですw奥サンは備前中納言【宇喜多秀家】の従兄弟なんですよ!正直なところ…いつ生まれたのかわかりません…義弟宇喜多詮家が永禄6年(1563年)生まれで同じ位の年齢か… 弟佐野信吉が永禄9年(1566年)生まれなので…その少し前位かと思います… 当初父一白は織田信長に仕えてましたw 元亀4年(1573年)4月12日に武田信玄が上洛途中で享年53歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日に春日山城で上杉謙信が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)3月11日に武田勝頼が享年37歳で自害します…天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…父一白と共に羽柴秀吉の元に仕えます!父一白はその後豊臣秀吉の外交使節として活躍しますw 天正12年(1584年)小牧長久手の戦いが勃発します! 父一白は戦線膠着後に徳川家康と織田信雄との和議の使者を務めてます! 天正14年(1586年)父一白は豊臣秀吉の妹朝日姫と徳川家康との縁組を実現させます! 天正17年(1589年)父一白は名胡桃城争奪戦に対する北条氏直への問責使者を務めます! これが後の小田原攻めのきっかけとなったんですよ! 天正18年(1590年)小田原征伐が行われます!! その際に父一白は伊達政宗と奥州仕置に関する交渉にあたってるんです! 文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵に父一白も参加します! 父一白は豊臣秀吉の御伽衆として活躍し徳川家康との仲介役も務めたんです! 文禄4年(1595年)に豊臣秀次事件が起こり五奉行浅野長政が謹慎を命じられます… 父一白はその際に五奉行浅野長政の職務を代行したんです! 慶長3年(1598年)8月18日に太閤豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)父一白はこれ迄の業績により伊勢安濃津3万石を拝領します!信高自身も父一白の業績により新たに2万石を拝領するんですw 慶長4年(1599年)10月28日に父一白が享年不明ですが死去します…そんで急遽父一白の遺領と合わせ伊勢国安濃津5万石を相続して安濃津城に入りします!!慶長5年(1600年)に300名の家臣を率いて上杉討伐に従軍します! そこで石田三成の挙兵を知ると徳川家康に味方する事を誓い急ぎ安濃津に戻ります!! 安濃津は交通の要衝で必ず西軍の攻撃に晒されると思ったからなんです!! 同じく東軍に加担した親友である伊勢上野城主分部光嘉と合流します! されに同じく東軍の松坂城主古田重勝にも援軍を要請するんです! 徳川家康には「安濃津籠城」の件を伝え急ぎの徳川軍主力の西上要請をしようします!! でも…西軍の九鬼嘉隆が海上を封鎖したんで関東との連絡は絶たれちゃうんです… 富田軍・分部軍に古田重勝の援軍500を加えても安濃津籠城の兵は1700人でした… 明らかな劣勢だったけど徳川家康の西上を信じ兵の士気は高かったんです!! 慶長5年(1600年)8月24日に西軍の安濃津城総攻撃が開始されます!! 親友分部光嘉は毛利家臣宍戸元次と双方重傷を負う程の激戦を繰り広げます!! 信高自ら槍を振るって奮闘するけど群がる敵兵に囲まれて「死」を覚悟するんです…そこへ1人の若武者が救援に駆けつけて来ます!そんで危機一髪のとこで一命を取り留めるんです!!実は…この若武者こそ最愛の奥サン(宇喜多忠家の娘サン)ゆきの方だったんですよ!
健闘したけど数の劣勢はいがめずこれ以上篭城継続は困難と判断します… そんで木食上人が仲介となって西軍との和平交渉が成立します… 慶長10年(1605年)頃に義弟宇喜多詮家の家臣を殺害した宇喜多左門を匿います! 匿った理由は不明ですが宇喜多左門は宇喜多詮家の甥なんですよ! そんで宇喜多左門を匿った事で義弟宇喜多詮家と対立するんですよ!! 慶長13年(1608年)には伊予国宇和島藩12万石に加増移封されますw 慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起こります!!慶長18年(1613年)義弟宇喜多詮家と対立に関して徳川家康・秀忠親子が介入します!そんで徳川家康・秀忠親子の裁定により改易されちゃうんですよ… 身柄は磐城平藩鳥居家に預けられるんです… ちなみに…翌年には実弟佐野信吉(下野国佐野藩主)も改易されちゃうんです… でも…これは表向きの理由で実際の改易原因は大久保長安事件に連座したって説が有力です… 慶長19年(1614年)から大坂の陣が勃発します! 元和2年(1616年)4月17日に徳川家康が駿府城にて享年74歳で死去します…元和8年(1622年)3月30日に実弟佐野信吉が江戸にて享年56歳で死去します…寛永9年(1632年)1月24日に徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永10年(1633年)4月7日に享年70歳位で配流先で死去します…長男知幸は徳川頼房の家臣となり子孫は水戸藩士として存続してます!!また次男知儀は館林藩主時代の徳川綱吉の家臣となり500俵を給され旗本となります!知儀の子息知郷の代に7千石に加増され直参の大身旗本として存続したんです! 下画像は義弟宇喜多詮家の従兄弟宇喜多秀家肖像画で決して信高じゃありません!【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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まるこさん、おはようございます。
富田信高は、関ヶ原の時夫婦で戦ったイメージがありますけど
違いますかね。とても曖昧な記憶しか無いのですいません。
2008/10/13(月) 午前 8:45
関ヶ原の際は間違いなく西軍相手に夫婦で奮闘してますよ!でも…このエピソードってあんましメジャーな無いのが残念です…
2008/10/13(月) 午後 0:41
でも、夫婦といのはなんとなく小説になりそうですけどね
私は、良い話だと思いますよ。それから先ほど画像のプレゼント
有り難うございます。さっそくプロフールの写真に使いました。
これからも伺います。
2008/10/13(月) 午後 3:03
それから、感謝のしるしに、ポチしますね。
2008/10/13(月) 午後 3:04
ぜひ何かしらでこの人物は扱ってほしいですねw祝儀を気に入って頂けて嬉しく思いますw
2008/10/13(月) 午後 3:54
せっかく夫婦で 頑張ったのに 気の毒です
ちなみに ゆきの方ですが
嫁ぐ時に 宇喜多秀家さんの養女になってます
年齢差が あんまりない義理の親子関係だけど 嫁ぐ時の箔付けですね^^
ポチ
2010/4/25(日) 午後 4:24 [ - ]
関ヶ原と言う最大の障害を乗り切ったのに…結局は「短所」がアダとなっちゃうんですよね…これって悲し過ぎますね…
2010/4/27(火) 午後 10:40