徳川綱豊は甲斐国甲府藩の第2代目(最後)の藩主3代将軍【徳川家光】の孫なんですよ!そんで後の江戸幕府の第6代目征夷大将軍【徳川家宣】本人なんですw寛文2年(1662年)4月25日甲府藩主徳川綱重の長男として誕生しますwお母サンはお保良の方(長昌院)で幼名は「虎松」なんですw 父綱重は4代将軍徳川家綱の3弟なんですよ!! ちなみに…綱豊が生まれた時父綱重はまだ結婚してなかったんですよ!! それも関白二条光平の娘隆崇院との結婚を直前に控えてた時期だったんです!! 母お保良の方(長昌院)はこの時26歳の身分の低い女中で父綱重は19歳でした… そんで世間体を気にして家老新見正信に預けられ「新見左近」と名乗らされました… 寛永4年(1664年)に母お保良の方(長昌院)が享年28歳で死去します…寛文10年(1670年)7月9日に父綱重と対面し「松平虎松」と改名しますw寛文11年(1671年)に伊達騒動が起きます! 寛文11年(1671年)跡継ぎが出来ない父綱重に世継として呼び戻されますw 延宝4年(1677年)12月12日従三位・左近衛権中将に叙任任官しますw 左近衛将監も兼任したんですよw 同じ日に元服し伯父である4代将軍徳川家綱の偏諱を受けて「綱豊」と名乗りますw 延宝6年(1678年)9月14日に父綱重が享年35歳で死去します…延宝6年(1678年)10月25日に17歳で家督を相続します!そんで暫くの間は祖母順性院(3代将軍徳川家光の側室)に育てられます! 延宝7年(1679年)に18歳で左大臣近衛基熙の娘熙子(天英院)サンと結婚しますw 延宝8年(1680年)伯父4代将軍徳川家綱の病気が悪化します… その際に伯父家綱に跡継ぎがいなかったんで叔父である館林藩主徳川綱吉と共に5代将軍の有力候補となったんです!!でも…老中堀田正俊が3代将軍徳川家光に最も血縁が近い叔父綱吉を強力に推薦したんで叔父綱吉が将軍世継となるんです…
延宝8年(1680年)5月8日に伯父4代将軍徳川家綱が享年40歳で死去します…延宝8年(1680年)6月26日に鳥羽藩主内藤忠勝が芝増上寺殺傷事件が起こします!!延宝8年(1680年)8月18日に参議に昇任しますw 延宝8年(1680年)9月6日正三位に昇叙しますw 延宝8年(1680年)12月9日に大老酒井忠清が失脚します! 延宝9年(1681年)6月に越後騒動が起きます! 延宝9年(1681年)8月26日に長女豊姫が誕生しますw 天和元年(1681年)10月21日に長女豊姫が享年1歳で死去します…天和3年(1683年)閏5月28日に叔父綱吉の長男徳松が享年4歳で死去します…叔父綱吉に跡継ぎがいなくなったんで再び将軍後継候補に浮上します!!対立候補は叔父綱吉の娘婿である紀州藩主徳川綱教でした! でも水戸藩主徳川光圀からは強く次期将軍に推挙されたんですよw 天和3年(1683年)7月29日に祖母順性院が享年62歳で死去します…貞享元年(1684年)8月28日江戸城内で大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に暗殺されます!元禄3年(1691年)12月15日に権中納言に転任しますw 元禄12年(1699年)9月18日に待望の長男が誕生しますwでも… その当日に死去し戒名「夢月院殿幻光大童子」しかわからないんです…元禄14年(1701年)3月14日に浅野内匠頭長矩による殿中刃傷事件が発生します!元禄15年(1702年)12月14日に「元禄赤穂事件」が発生します! 宝永元年(1704年)12月5日に将軍後継者となりますw これにより江戸城西ノ丸入りしこの日を持って甲斐国甲府藩25万石は廃藩となるんです…
宝永2年(1705年)3月5日従二位・権大納言に昇叙転任し「家宣」と改名しますw 宝永4年(1707年)7月10日に次男家千代が誕生しますw 宝永4年(1707年)9月28日に次男家千代が享年1歳で死去します…宝永5年(1708年)12月22日に3男大五郎が誕生しますw宝永6年(1709年)1月10日に叔父の5代将軍徳川綱吉が享年63歳で死去します…宝永6年(1709年)5月1日に48歳で正二位・内大臣に昇叙転任し右近衛大将を兼任w悪評だった「生類憐みの令」や「酒税」を廃止します!! 間部詮房・新井白石を登用し幕政改革に熱心で文治政治を推進したんですw さらに荻原重秀に命じて財政改革も行ってるんですよ! 宝永6年(1709年)7月3日に4男鍋松(後の7代将軍徳川家継)が誕生しますw 宝永7年(1710年)8月12日に3男大五郎が享年3歳で死去します…正徳元年(1711年)8月25日に5男虎吉が誕生しますw正徳元年(1711年)11月6日に5男虎吉が享年1歳で死去します…正徳2年(1712年)9月23日に志半ばで病気で倒れて寝込みます…正徳2年(1712年)10月14日に享年51歳で江戸城にて死去します…法名は「文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士」で墓所は東京都港区の三縁山広度院増上寺です…正徳2年(1712年)11月3日に贈正一位太政大臣に昇任しますw 正徳3年(1713年)4月2日に「鍋松」改め「家継」が4歳で7代将軍に就任しますw 正徳4年(1714年)に絵島生島事件が起ます!! 正徳6年(1716年)4月30日に4男家継が享年8歳で死去します…これにより2代将軍徳川秀忠の系統は断絶し紀州徳川家から徳川吉宗が迎えられるんです!
★☆★ちなみに…下画像は徳川家宣(綱豊)本人の肖像画ですw★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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徳川宗家は結構短命の家系なんでしょうか?
当時の出生率は現在より低いとしてもあまりにも短命過ぎです。
家宣公自身も「名君」の素質が備わってたと言われてます。
もっと長生きしていたら時代は大きく変わっていたかもしれませんね。
2009/2/17(火) 午後 11:08 [ 癒康 ]
コメント有難うございますw本当に幼くして亡くなったお子サン達は可哀相ですね…でも家宣公にしても家継公にしても秀忠系の人物で将軍職に就いた人物は「名君」が多いですねw4代将軍家綱公に関しては「左様せい様」と主体性が無い様に言われてますが…決してそうじゃなかったみたいですねw
2009/2/19(木) 午後 3:24
はじめまして関連記事から来ました。
宜しくお付き合いをお願いします。傑作
2009/3/12(木) 午後 9:02
ご訪問有難うございます m(_ _)m これからも宜しくお願い致しますw
2009/3/12(木) 午後 10:10
見たことある名前だなぁ〜と思ったら、6代様だった^^
ライバルだった暴れん坊の兄上は、病死されたんですよね。
このあたりの知識は大河の吉宗の受け売りです^^
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2010/9/27(月) 午後 10:28 [ - ]