堀直清は越後国三条藩の第2代目(最後)の藩主【堀秀政】の従兄弟で【堀秀治】の家老【堀直政】の長男ですw天正元年(1573年)に織田信長の小姓堀秀政の従兄弟堀直政の長男として誕生しますw元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中の陣中にて享年53歳で死去します…天正3年(1575年)越前一向一揆討伐に父直政も参陣します!天正4年(1576年)に秀政の長男秀治が誕生しますw 天正5年(1577年)の紀伊雑賀討伐戦で父直政は秀政の与力として参陣します! 天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が春日山城にて享年49歳で死去します…天正9年(1581年)の伊賀攻め等でも父直政は秀政の与力として活躍します!!同じ年秀政が近江国坂田2万5千石拝領時に父直政は家老になりますw 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…この時に秀政は羽柴秀吉の軍監として備中高松に在陣し父直政も一緒でした!!父直政は秀政と共に羽柴秀吉に忠誠を誓い山崎の合戦等で活躍します! その後も賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦い・雑賀攻め・四国攻め・九州攻め等に従軍します! 天正13年(1585年)堀秀政が越前国北ノ庄18万石を拝領しますw 天正18年(1590年)小田原征伐にも父直政は秀政の与力として従軍します! 天正18年(1590年)5月27日に堀秀政が陣中にて享年38歳で死去します…この時に豊臣秀吉は北ノ庄堀家を取り潰そうと考え秀治への家督相続を認めなかったんです!!この事を父直政は怒って怒った直政は弟直寄を豊臣秀吉への使者とします! そんで豊臣秀吉に直訴し堀秀治の家督相続を認めさせたんです!! これ以降弟直寄は豊臣秀吉に気に入られ豊臣秀吉の小姓を務めてるですよ! 文禄4年(1595年)7月15日に豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長2年(1597年)8月28日に足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)堀秀治が越後国春日山45万石に移封されます!この時に父直政は一門衆筆頭・筆頭家老となり越後国三条5万石を拝領しますw 父直政は筆頭家老として堀秀治の元にいたので名代として三条城主となるんですw でも直江兼続の策略で収穫済の全ての年貢米を持ち去られる事態が起てます!! 慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月3日に五大老前田利家が享年61歳で死去します…この頃より父直政と一緒に徳川家康支持を表明します!でも…弟直寄だけ一時豊臣支持だったけど父直政の「鶴の一声」で徳川支持となるんです! 慶長5年(1600年)7月17日に石田三成が挙兵します!! 慶長5年(1600年)8月4日に直江兼続の策略で一揆が勃発し三条城を攻撃します!! この時に出陣して数多くの一揆勢を討ち取り撃退したんですよ!! 慶長5年(1600年)9月8日に一揆勢は上杉軍3千余人と再度挙兵します!! この時もすぐさま出陣し敵将を討ち取る活躍をし徳川秀忠に賞賛されてますw その後も父直政や弟直寄と一緒に越後国内の一揆鎮圧に努めたんです! 慶長7年(1602年)に父直政が堀秀治の弟親良と対立します!!堀親良は国政を顧みない兄秀治への不満もあって病気を偽り突然京都伏見にある屋敷に逃げちゃうんですよ…この時堀親良は兄秀治の次男鶴千代を養子として蔵王堂藩主にして弟直寄を家老とします!
慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長11年(1606年)に蔵王堂藩主堀鶴千代が享年9歳で死去します…これにより蔵王堂藩は改易となり異母弟直寄が旧蔵王堂藩領を実質管理するんです!慶長11年(1606年)5月26日に堀秀治が享年32歳で死去します…そんで堀宗家は秀治の長男忠俊が継いだんです!慶長13年(1608年)2月26日に父直政が享年62歳で死去します…そんで家督を継ぎ堀宗家の執政職(家老)となるんです!この頃より異母弟直寄と家督相続や堀宗家内の主導権等を巡り対立するんです!! 慶長15年(1610年)一向宗僧と熱いデスカッションを行います!! その宗教観を危険視して僧侶を弾圧しちゃうんですよ!! 他の僧侶達がそのやり方を非難し一揆を起こしかねない状況になります… そんで首謀者を捕えて斬首しちゃったんです… 奥サン(自性院)はこの騒動が一向一揆に発展して堀家没落に発展しかねないと危惧して 親戚に当たる2代将軍徳川秀忠の妻お江の方に書状を送り相談するんです! さらに異母弟直寄もこの僧侶殺害事件を徳川家康に訴え出るんです!! 徳川家康はこれで父直政時代に出来なかった堀家取潰の口実を得る事になります! 駿府城に宗家堀忠俊・異母弟直寄ら堀一族が呼び出され徳川家康の裁定が行なわれます!! 堀忠俊は非が無いことを訴え助命嘆願してくれたんだけど… 「家中取締不十分」とし宗家堀忠俊と一緒に【改易処分】となるんです… そんで身柄は山形藩主最上義光の元へ配流となるんです… ちなみに…異母弟直寄は1万石の減封処分で済んだんです!! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起こります…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起こります!!慶長19年(1614年)1月18日に山形藩主最上義光が享年68歳で死去します…慶長19年(1614年)から大坂の陣が起ります!!元和2年(1616年)4月17日に徳川家康が享年74歳で駿府城にて死去します…元和3年(1617年)3月6日に2代目山形藩主最上家親が享年36歳で死去します…これにより山形藩最上家内で「御家騒動」が起るんです!!元和8年(1622年)ついに山形藩最上家が改易されちゃいます… その後は許されて自由気ままに余生を過ごしたんですw
寛永9年(1632年)1月24日に徳川秀忠が駿府城にて享年53歳で死去します…寛永14年(1637年)10月島原の乱が勃発します!!寛永18年(1641年)に享年70歳で死去します…★☆★ちなみに…下画像は異母弟堀直寄の銅像ですw★☆★ |
全体表示
[ リスト ]




愛と直江兼続(●^o^●)
2009/3/13(金) 午後 6:53
ご訪問有難うございますw
2009/3/15(日) 午後 11:35
はぁ・・・堀家は堀秀政が短命だったために、運命の歯車が噛み合わなくなったように思います。。(ω・`))シュン
このとき離縁した国姫様が有馬家に再嫁して、結局は越前・丸岡5万石だから、
家康と幕府は越前に外様大名を置くつもりが無かったんでしょうね。
御近所が前田に上杉に伊達だから、親藩で固めたいのは解る。
そもそも堀秀政が長命してたら、関東に入るのは家康じゃなく、堀秀政ってことも有り得た。
つくづく堀家は惜しい!
ランクリ▼・×・▼←ポチ
2010/10/6(水) 午後 11:08 [ - ]