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天文11年(1542年)斎藤道三が守護土岐頼芸親子を追放し実権を握ります! その後父ト全は事実上の美濃国主となった斎藤道三に仕えていますw 天文17年(1548年)斎藤道三の娘帰蝶と織田信秀の嫡子信長が結婚しますw 天文19年(1550年)5月4日12代将軍足利義晴が享年40歳で死去します…天文20年(1551年)3月3日織田信秀が享年42歳で死去します…天文20年(1551年)に弟行継が誕生しますw天文23年(1554年)斎藤道三は60歳で家督を長男義龍へ譲り隠居します! 父ト全は斎藤義龍に引き続き仕えますw 弘治元年(1555年)斎藤義龍が弟達を殺害し斎藤道三に対して挙兵します!! この時は父ト全は斎藤義龍側に立って戦ったんです… 弘治2年(1556年)4月20日斎藤道三が享年63歳で討ち死にします…永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄4年(1561年)5月11日斎藤義龍が享年35歳で死去します…父ト全は斎藤龍興に引き続き仕えますが…仲が良くなかったんです…永禄7年(1564年)に竹中半兵衛が一時稲葉山城を占拠します!! 永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…永禄9年(1566年)頃より斎藤家を離反し織田家に仕え出す者が増えます!永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!! 永禄10年(1567年)父ト全は稲葉一鉄と安藤守就らと3人で一緒に織田信長の 稲葉山城攻めに内応して斎藤家を離反し織田家の家臣として仕えたんです!! この頃から兄直昌と弟行継と3人一緒に織田家に仕えたんです! 永禄10年(1567年)斎藤龍興が美濃を追放され織田信長が併合しますw 永禄11年(1568年)9月に父ト全は織田信長の上洛に従ってます!! 永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…永禄12年(1569年)父ト全は北畠具教征伐に参陣して活躍します!元亀元年(1570年)6月姉川の戦いにも父ト全が参陣して活躍します! 元亀2年(1571年)父ト全は伊勢長島攻めで柴田勝家隊にて従軍します!! そんで織田軍が撤退する時に父ト全は殿軍を務めることになるんです!! でも…激しい一揆勢の反撃を受けて父ト全は必死で戦いますが… 元亀2年(1571年)5月12日父ト全が享年59歳で美濃石津にて戦死します…そんで兄直昌が家督を継ぎ織田信長に仕え美濃国大垣城主となるんですw元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…天正元年(1573年)一乗谷の戦いで兄直昌が旧主斎藤龍興を討取る活躍をします!!元亀4年(1573年)7月15代将軍足利義昭が京都を追放されます!! 天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…兄直昌はその後も石山合戦や荒木村重討伐等に参陣して活躍するんですよw天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…兄直昌と弟行継と3人一緒にその後羽柴秀吉に仕えたんです!この時に旧美濃斎藤氏家臣の寺西直次と再会し意気投合しますw 天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでも羽柴側として活躍しますw 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに弟行継と一緒に参陣します! 天正18年(1590年)小田原征伐にも参陣し活躍します!! そんで戦後に伊勢国桑名2万2千石の所領を拝領するんですw この時に弟行継も近江・伊勢国内に1万5千石の所領を拝領していますw 天正20年(1592年)からの朝鮮出兵で肥前名護屋城に在陣しています! 慶長2年(1597年)10月9日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長5年(1600年)当初東軍に味方しようと思って上杉征伐に参加します!!慶長5年(1600年)7月17日に石田三成が挙兵します!! 小山評定の際に徳川家康に寺西直次と一緒に申出て桑名城に引き返し籠城します!その後弟行継も合流したんです!交通の要所である伊勢国桑名が西軍の手に渡る事を防ぐ為だったんですが…
伊勢国内に西軍の勢力が及んで来たんで中立の立場を貫こうとします! でも…西軍勢力が余りに巨大で泣く泣く弟行継・寺西直次と一緒に西軍に味方します… この時に徳川家康の意思で本多忠勝が東軍に味方するように説得してます!! 慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦いで東軍が勝利します!! 慶長5年(1600年)9月16日に山岡景友・九鬼守隆らの攻撃を受け降伏します… そんで西軍加担を理由に【改易】され死罪は免れて浪人となるんです… 弟行継と寺西直次は高野山に篭り謹慎し出家してます… 慶長6年(1601年)に弟行継が許され6千石で細川忠興の家臣となりますw それ以降子孫は熊本藩に仕え明治維新を迎えてるんですよw 京極高次や池田輝政の間を往き来して悠々自適に浪人暮らしをしてたんですw 慶長8年(1603年)2月12日に徳川家康が征夷大将軍に任官します! 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 慶長10年(1605年)5月8日松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起こります…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起こります!!慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣で「荻野道喜」と偽名を使い大坂入りします!!その時に3人の息子も一緒に大坂入りをしています!そんで幕府軍相手に数多くの活躍をしたんです!慶長19年(1614年)12月20日外堀の埋立を条件に和議が成立します! 徳川家康はその器量を惜しみ何度も10万石で仕官を呼び掛けたけど断ります! 慶長20年(1615年)5月5日に徳川家康が再び大坂へ進軍し大坂夏の陣が勃発! 【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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氏家卜全の子孫って哀れな最期だったんですね。卜全が一向一揆との戦いで討死したのは知ってましたが、その子孫が肥後藩に仕えたことは初めて知りました。とても勉強になります!
2009/3/27(金) 午後 9:59 [ 鳳山 ]
弟行継の奥サンのお父サンが山岡景友だったんで上手く言い訳してくれてその後の身の振り方も段取りつけてくれたんでしょうね…でも氏家行広自身も徳川家康に器量を認められた逸材だったんで家康の申出を受けていれば間違いなく大名として家名を存続出来た筈です!そこ迄豊臣秀吉に対して恩義を感じていたんでしょうねw
2009/3/27(金) 午後 11:22
細川家で6000石って、すごい高待遇^^
大坂の陣のころ10万石って誘い文句は本気か半信半疑な媛です。
そのころ10万石も割くことなんて出来たかなぁっ〜〜^^;
でも家康が認めてたのは本当だから、小大名でも家名は残せたはずですね。
司馬作品の関ヶ原で、大坂の陣に参加してたのは書かれてたけど、
偽名だったとは知りませんでした^^
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2010/10/14(木) 午後 9:00 [ - ]