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幼名は「虎熊」でお母サンは毛利元就の次男吉川元春の娘サンですw 天正8年(1580年)9月に父元続が堤城を攻め毛利氏から完全に独立します!! これ迄南条家は安芸毛利家傘下だったんだけど…織田信長の勢力が山陰地方に及んで来たんでその総司令官羽柴秀吉を通して織田家に従うようになったんです!
天正9年(1581年)鳥取城攻めで父元続は毛利家の鳥取城救援を妨害しています!! 天正10年(1582年)5月8日から羽柴秀吉の備中高松城の水攻めが開始されます!! 天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月4日に羽柴秀吉と小早川隆景が和睦しますw天正10年(1582年)6月13日に羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!! 天正10年(1582年)9月毛利家の猛攻を受け羽衣石城が落城します… そんで一族は離散し避難生活を送るんですよ… 天正12年(1584年)羽柴家と毛利家の正式に和睦しますw そんで父元続は八橋川以東の伯耆東3郡6万石の領有が認められ羽衣石城に復帰しますw これ以降羽柴秀吉に仕えるようになるんです! でも父元続は体調が優れなかったんで弟である小鴨元清が城主代行となります! 天正14年(1586年)の九州征伐に父元続が参陣します!! 天正14年(1586年)11月15日に祖父吉川元春が享年57歳で死去します…天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します! これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ! 天正18年(1590年)小田原征伐に父元続自らが参陣します!! 天正19年(1591年)7月17日に父元続が無理が祟って享年43歳で死去します…そんで12歳で家督を継ぎます!そんで叔父小鴨元清が引続き後見となります!さらに従五位下・中務大輔に叙任任官していますw 天正20年(1592年)からの朝鮮出兵には叔父元清が代理で出陣します!! その後…後見人の座を巡る争いで叔父元清との確執が生じます… そんで叔父元清は豊臣秀吉の命令で小西行長の下へ預けられるんです! 慶長2年(1597年)6月12日に小早川隆景が享年64歳で死去します…慶長2年(1597年)10月9日に足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月3日に五大老前田利家が享年61歳で死去します…慶長5年(1600年)7月17日に石田三成が挙兵します!!当初家臣達は東軍に味方する事を勧めますが…反対を押切り西軍に味方します!! 理由は…『周囲に西軍が多いし大閤に恩がある!!大儀を貫きたい』だったんです… そんで西軍として伏見城や大津城攻めに参加してるんです! 確かに毛利家120万石とお隣り同士だったんですけどね… 慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦で東軍が勝利します!! そんで西軍加担を理由に【改易】され死罪は免れて浪人となるんです… 一族は離散し他国へ逃れ没落しちゃうんですよ… この頃叔父元清は主家小西家が改易後に6千石で加藤清正に仕えています! 慶長7年(1602年)12月1日に小早川秀秋が岡山にて享年21歳で死去します…慶長8年(1603年)2月12日に徳川家康が征夷大将軍に任官します!慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 慶長10年(1605年)5月8日松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起こります…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起こります!!慶長19年(1614年)御家再興を願って一族・旧臣と一緒に大坂入りをします!そんで平野橋口で3千人の兵を与えられるんですよ! この時に叔父元清も加藤清正の元を去って大坂入りしようとします!! だけど…大坂に向う船内で病気で倒れちゃうんですよ… 慶長19年(1614年)2月13日に叔父元清が大坂に向う船内で享年56歳で死去します…慶長19年(1614年)11月19日に大坂冬の陣が勃発します!!この直後に幕府方藤堂高虎に「伯耆一国」を条件に誘われ「裏切り」を約束します! 慶長19年(1614年)12月幕府軍を大坂城に侵入させようとします!! だけど豊臣家臣渡辺糺に見つかり捕らえられ大坂城内の千畳敷に連れ出されます!! 慶長19年(1614年)12月3日に大坂城千畳敷にて享年37歳で切腹させられます…慶長19年(1614年)12月20日幕府と豊臣家の和議が成立してます!遺骸は小姓佐々木吉高により持ち帰られお墓は鳥取県倉吉市定光寺にあります… 戒名は「南星院殿意安元宅大居士」です… その後子孫は鳥取藩池田家に仕えて藩重臣として存続したんですよ!! ちなみに…現在に残る羽衣石城跡の模擬天守閣(上画像)は昭和6年(1931年)にご子孫が私財を投じて建設したものなんですよーw
★☆★ちなみに…下画像は祖父吉川元春の肖像画で決して元忠じゃありません!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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取潰されたお殿様
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確かに微妙な立場ですね‥
伯耆一国で裏切りって反故されるような約束ですしね。
戦って華々しく散るほうが名は残るのに、そうゆう事とかはまるで考えなかったんでしょうね‥
2009/3/30(月) 午後 11:17
「名を残すか家を残すか」で結局はある意味で名を残してしまってますね…やはり信念を貫く気持ちがなければ何事も中途半端になっちゃうと言う事かもしれませんねw
2009/3/30(月) 午後 11:52
羽衣石城ですか・・・地元なので懐かしいですね。
地元のお年寄りからは「南条さん」って今も言われる存在です。
それにしても尼子・毛利・織田と巨大勢力に挟まれた国人一族がよくここまで成長したなぁと思います。
伯耆国内の他の国人はほとんど衰退、もしくは有力大名の家臣に組み込まれてますからね。
2009/12/12(土) 午後 11:46 [ kou*u*20 ]
コメント有難うございます m(_ _)mいまだに地元の方々に親しまれてるって凄い事ですよ!!南条家に限らず絶えず時勢を読み大勢力の間を巧みに泳ぎ切っただけに…何故最後の最後で読み違えちゃったのか…それがとても残念です…でも子孫が残り家名が存続出来た事を嬉しい限りです!
2009/12/13(日) 午後 11:08
南条さん〜〜大儀なんかいいから〜御家存続優先〜〜(−−;)
秀吉の中国攻めのとき 南条と宇喜多の離反が かなり痛手だったようですね
ポチ トラバします
2010/3/27(土) 午後 9:39 [ - ]
人間…やっぱり「欲」には勝てないんでしょうね…まずは御家再興!!
2010/3/27(土) 午後 11:54