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父意行は8代将軍徳川吉宗の小姓で元々は紀州徳川家の足軽だったんです… お母サンは旗本田代高近の養女辰サンで幼名は「龍助」なんですよw 享保9年(1724年)11月に父意行が従五位下・主殿頭に叙任任官しますw 享保18年(1733年)9月に父意行は相模国高座大住郡600石を賜ってますw 元文2年(1737年)に従五位下・主殿頭に叙任任官しますw そんで将軍世継徳川家重が9代将軍に就任し本丸小姓になりますw 延享4年(1747年)には小姓組番頭格奥勤に昇進するんですw 寛延元年(1748年)閏10月1日小姓組番頭奥勤兼務に昇進しますw そんで1400石を加増され2千石の直参旗本となるんです!! この頃に同じく直参旗本黒沢定紀の娘サンと結婚しますw 寛延2年(1749年)に長男意知が誕生しますw 宝暦元年(1751年)4月18日には御側御用取次側衆に昇進しますw 寛延4年(1751年)6月20日に徳川吉宗が享年68歳で死去します…宝暦5年(1755年)に3千石を加増され大身の直参旗本になりますw宝暦8年(1758年)に発生した美濃国郡上藩内での百姓一揆(郡上一揆)に関する裁判の担当者にする為に9代将軍徳川家重に5千石を加増され1万石の大名になりますw大名家を裁く権限は大名にしかなかったからなんですよ!
宝暦10年(1760年)4月1日に9代将軍徳川家重が隠居し大御所となります! 宝暦12年(1762年)に石高5千石を加増されますw 明和4年(1767年)7月1日にも5千石を加増され相良城の築城を開始します! そんで「御用人」から「側用人」へと出世し従四位下に叙任します!! 長男意知も一緒に従五位下・大和守に叙任任官してるんですよ!!異例の出世ですw この頃より老中首座松平武元らと幕政をリードし数々の幕政改革を行うんです!! 悪化する幕府の財政赤字を食い止める為に重商主義政策を推進するんですw株仲間の結成や専売制の実施とか鉱山や蝦夷地の開発・外国との貿易拡大等など…そんで幕府財政は改善され景気も良くなるんです!でも…これ迄のお米中心の経済から金銭中心に変って行くんです… 都市部で町人文化が発展したりもしてましたwでも…その一方で「負の産物」として贈収賄が日常化しちゃったり荒廃した農村部では農民が田畑を放棄し大都市へ流れ込むんです…
明和6年(1769年)8月18日に老中格に就任し側用人を兼務します! そんで官位も侍従を兼任し石高5千石も加増されるんです! ちなみに「侍従」って言うと…御三家とか10万石以上の大大名が任官してます!! 明和9年(1772年)1月15日には老中を兼任しますw この頃に次期将軍候補だった松平定信が「賄賂政治」と言って公然と批難して来ます!!だけど田沼派に疎まれて一橋治済によって安永3年(1774年)に久松松平家庶流の陸奥国白河藩松平家の養子に出されちゃいます…これを機に「反田沼派」の急先鋒となるんです…安永6年(1777年)4月21日にさらに石高7千石を加増されますw安永7年(1778年)に浅間山が噴火を起します!! 安永9年(1780年)相良城が12年の歳月をかけて完成しますw 天明元年(1781年)7月15日に石高1万石を加増されますw 天明3年(1783年)長男意知が家督未相続のまま若年寄に就任します!! 天明3年(1783年)3月12日に陸奥国の岩木山が噴火します… 天明3年(1783年)7月6日には浅間山が大噴火を起すんです!! これが決定打となり全国各地で飢饉が発生し出すんです! 天明4年(1784年)3月24日に江戸城内にて長男意知が旗本佐野政言に襲撃され重傷を負います!!
天明4年(1784年)4月2日に長男意知が襲撃が原因で享年35歳で死去します…長男意知暗殺事件や天明の大飢饉の影響で権勢が衰え始めるんです…天明5年(1785年)1月21日に1万石を加増され合計5万7千石の大名になりますw 僅か600石から5万7千石への昇進は当時は豊臣秀吉以来の異例の出世でしたw 天明6年(1786年)8月25日に10代将軍徳川家治が享年50歳で死去します…これを受けて反対派の松平定信が復権に向けて暗躍し出すんです…そんで…天明6年(1786年)8月27日に老中職を罷免されます… その際に所領の内2万石を没収されちゃうんですよ… それと同時に反田沼派の松平定信が老中首座に就任します!! 天明7年(1787年)10月2日には残りの所領3万7千石も没収されます… さらに蟄居を命じられ江戸・大坂の屋敷等私財も没収されちゃいます… 相良城は取壊され城内に備蓄されてた金穀も全て没収されました… 実質の【改易】で松平定信による田沼派への徹底的な粛清だったんです… そんで長男意知の長男意明が14歳で家督を継ぐ事を許されます! そんで陸奥国下村1万石を拝領し何とか家名存続を許されたんです… 天明8年(1788年)6月24日に失意の内に享年70歳で死去します…戒名は「隆興院殿耆山良英大居士」で墓所は東京都豊島区駒込の万年山勝林寺です…この頃に天明の大飢饉が終息に向かってるんです… ちなみに…死の35年後である文政6年(1823年)7月8日に田沼家は旧領相良藩に戻る事が出来てそのまま相良の地で明治維新を向かえてるんですよw
下画像は田沼意次本人の肖像画なんですーw【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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田沼意次に限らず権力闘争に敗れた側の末路は悲惨ですね。
2009/5/22(金) 午後 1:17 [ わんこ ]
田沼意次に関しては「本多vs大久保」の件を除けば…特に酷いです…
2009/5/25(月) 午後 11:27
田沼時代が続いたら開国が速まったかもですね^^
巡り合わせが悪い人で気の毒です。
(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆
秋月編が連載70回目で終了しました^^
いろいろありがとうございました。
今年も雪が多いから、そちらも除雪に追われてるでしょうね^^
お体に気を付けてください^−^
2011/1/23(日) 午後 4:15 [ - ]