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生年月日って実は不明なんですよ…だから推測です… 天正17年(1589年)5月27日に豊臣秀吉の長男鶴松が誕生しますw 天正18年(1590年)小田原征伐に父盛景が参陣して大活躍しています! そんでその功績で父盛景は豊臣秀吉より美濃国大垣5万石を拝領するんですw さらに父盛景は三好秀次(後の豊臣秀次)の与力となるんですw 天正19年(1591年)8月5日に豊臣鶴松が大坂城にて享年3歳で死去します…天正19年(1591年)11月に三好秀次が豊臣秀吉の養子となります!天正19年(1591年)12月28日に豊臣秀次が豊臣秀吉より関白職を譲られますw 文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵で父盛景は名護屋城に滞陣してます!! 文禄2年(1593年)8月3日に豊臣秀頼が誕生します!! 文禄4年(1595年)に豊臣秀次が豊臣秀吉から謀反の疑いをかけられます… 父盛景を始め多くの大名等が豊臣秀次の無実を訴えてたんです!!でも… 豊臣秀次本人の釈明も許されなかったんです… 実子が生まれたら養子じゃなくて実子に跡を継がせたいってのが親の心情なんですけど…だからって…
文禄4年(1595年)7月8日に豊臣秀次が高野山に追放されます… 文禄4年(1595年)7月15日に豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…文禄4年(1595年)8月2日に京都三条河原で豊臣秀次の家族や関係者39人が処刑されます…その際に父盛景が一連の豊臣秀次事件に連座して減封の上謹慎の処罰を受けます…慶長2年(1597年)8月28日に足利義昭が享年61歳で死去します…この頃に父盛景が豊臣秀吉に赦免され直参として仕えてますw慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月に前田利家と徳川家康の対立が一時激化しています!!慶長4年(1599年)閏3月3日に五大老前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)に父盛景(享年不明)が大垣城にて死去します…そんで父盛景の跡を継ぎ3万4千石の大垣城主となるんですwその際に従五位下・長門守に叙任任官してるんですよw 慶長4年(1599年)閏3月4日に五奉行石田三成襲撃事件が勃発しています! 当初から西軍に味方してたんですよw 慶長5年(1600年)7月17日に石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! 慶長5年(1600年)7月19日に伏見城攻防戦が行われてます!! 慶長5年(1600年)7月20日石田三成より大垣城を西軍本陣にしたいと要請されます!! でも…迷惑極まりないこの要請を拒否するんですよ! だけど懲りずに石田三成は何度も同じ要請をして来るんですよね… 要請内容も鬱陶しいけど…石田三成の再三要請もウザかったんですよ…だから… 慶長5年(1600年)8月6日に大垣城を明け渡し美濃国今村城に退去します… 慶長5年(1600年)8月10日に石田三成ら西軍諸将が大垣城入りします! 慶長5年(1600年)9月14日夜に福原長堯に守備を任せ西軍諸将が大垣城を出陣!! この際に西軍諸将のひとりとして一緒に出陣するんです! そんで一路決戦の場所である【関ヶ原】を目指し松尾山城に入城します!! だけど…すぐ後から来た小早川秀秋軍によって松尾山城を追い出されちゃいます… 抗議するけど…相手にもされなかったんです… そんで松尾山城より手前…小早川隊の右前方に陣を移すんです… 慶長5年(1600年)9月15日午前8時頃に両軍の戦端が開きます!!慶長5年(1600年)9月15日正午頃に小早川秀秋が西軍を裏切ります!!そんで大谷吉継隊への攻撃を開始します! そんで大谷隊が壊滅しちゃうんですよ… 身の危険を感じて早々に兵を纏めて戦線を離脱しちゃいます!! そんで今村城に向けて撤収を開始するんです… 慶長5年(1600年)9月15日午後1時頃に宇喜多・石田・小西等西軍主力が壊滅… 慶長5年(1600年)9月15日午後2時頃関ヶ原本戦は東軍が勝利します!関ヶ原撤退後は今村城に篭城をしますが…諦めて東軍に降伏し開城します…そんで西軍加担を理由に【改易】され死罪は免れて浪人となるんです… その後は京都に引越して細々とした生活を送るんです… 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…慶長8年(1603年)2月12日に徳川家康が征夷大将軍に任官します!慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生まれて来るんですよ… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀吉の遺言で豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫と結婚します! この頃に加賀藩主前田利長に誘われ加賀藩に仕えるんですw これで何とか生活の目処が立つんですw 慶長10年(1605年)4月13日に豊臣秀頼が右大臣に就任します! 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長16年(1611年)宇喜多秀家が死罪を免れ八丈島に流罪となるんです… 慶長16年(1611年)加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起こります…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起こります!!慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘事件が起き豊臣家家老片桐且元が追放されます!!この頃から大坂方より豊臣陣営から誘いを受けますが断固として拒否します! 慶長19年(1614年)5月20日に前田利長が高岡城にて享年53歳で死去します…そんで引続きその跡を継いだ前田利常に仕えるんですw慶長20年(1615年)5月8日に大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…元和2年(1616年)4月17日に徳川家康が享年74歳で駿府城にて死去します…元和9年(1623年)に加賀にて享年40歳位で死去します…★☆★ちなみに…下画像は父盛景の旧主豊臣秀次の肖像画で盛正じゃないんです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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大垣城は有名だし
守備した福原は石田三成の縁戚だから 多少 知名度有るけど
城主 影が薄い(;^_^A(;^_^A
父上が秀次切腹事件のとばっちり受けたんですね 気の毒〜(;^_^A(;^_^A
前田家へ再仕官良かった!
利常の代も仕えてるなら有能な人物だったんですね( ̄▽ ̄)
若くして亡くなったのが残念です( ̄ω ̄)
2009/6/5(金) 午後 11:49 [ - ]
伊藤盛正って何だか可哀相な人物ですよね…関ヶ原時は若かったのもあるけど「押しが利かない」感がありますねw長生きしてたら加賀藩の重臣クラスになれたと思います!
2009/6/5(金) 午後 11:58
私、伊藤盛正の末裔にあたります。
色々勉強させて頂き、ありがとうございます。
おっしゃる通り、関ヶ原後から代々前田家に仕え、今でも加賀(石川県)に住んでいます。
ただ、うちの由緒書には、関ヶ原後、京都で浪人をしている時に、徳川家康に見つかり殺されそうになったところ、福島正則の懇願により助けられ、正則の領地・広島で15年程、お世話になったと書かれております。そして、加賀藩へ来たのは1620年頃だと。
でも、うちの先祖のことを、ここまで調べて頂き、本当にありがとうございました。
2009/7/18(土) 午前 0:17 [ さくら ]
初めましてwご訪問・コメ有難うございますwご子孫ならではの逸話を始めて知りこちらこそ大変に勉強になりました!有難うございます m(_ _)m 多少記事の内容に不備等あった際はご容赦下さいませ…今後とも宜しくお願い致しますw
2009/7/20(月) 午後 11:32
始めまして。
先祖の由緒書を調べている時に
このブログに出合いました。
由緒書によると私の先祖は伊藤盛正で、
関ヶ原戦で敗れた時に嫁の縁戚である、
大津城主・京極高次に遺子(隆丸)を預けたとされています。
その後、京極家老臣・今枝弥右衛門良重の養子となり、
今枝四郎左衛門良隆と名を変えたと記されています。
その良隆の長子が今枝流剣術を創始した
元京極藩士・今枝四郎左衛門良政です。
良政は後に大津膳膳藩剣道指南役となり
子孫は滋賀県大津市に住んでいます。
金沢の伊藤様も伊藤盛正のご子孫なら
是非、私のブログへご連絡いただければ幸いです。
2014/12/4(木) 午前 9:45
> さくらさん
> 笹舟さん
初めまして、私達伊藤一族は、関ヶ原合戦時に小早川秀秋の寝返りを成功させた小早川の付け家老である稲葉正成の末裔に、岐阜県側の伊藤盛正の末裔だと言われ続けていますが、由緒書とか、古文書が無いので、よく分からずに今に至っています。勝手なお願いで申し訳ございませんが、そちらにあります由緒書きを拝見させていただくことは、可能でしょうか。
2018/6/29(金) 午後 10:05 [ じゃがいも ]