『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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毛利 秀包

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毛利秀包は筑後国久留米藩の最初で最後の藩主

【毛利元就】の9男で実兄【小早川隆景】の養子ですw

そんでもって【立花宗茂】とは義兄弟の関係でもあるんですよw

永禄10年(1567年)毛利元就の9男として誕生しますw

お母サンは乃美大方サンで幼名は「才菊丸」ですw

この時…次兄吉川元春は37歳で3兄小早川隆景は34歳でしたw

長兄隆元は4年前に享年41歳で既に死去してて14歳の甥輝元が当主でした…

でも…71歳の父元就が後見人として実権を握ってたんです!!

永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!!

永禄11年(1568年)9月30日に14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…

元亀2年(1571年)6月14日に父元就が享年75歳で死去します…

元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が享年53歳で死去します…

天正5年(1577年)羽柴秀吉が中国攻めを開始します!!

天正5年(1577年)10月10日に松永久秀が享年68歳で死去します…

天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が享年49歳で死去します…

天正7年(1579年)に3兄小早川隆景の養子となり元服し「小早川元総」と名乗りますw

天正10年(1582年)5月8日羽柴秀吉が備中高松城攻めを開始します!!

天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月4日に養父隆景が羽柴秀吉と休戦しますw

天正10年(1582年)6月13日に羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!

天正12年(1584年)毛利家と羽柴家が正式に和睦しますw

その際に人質として大坂の羽柴秀吉の下に送られたんです…

でも生活に制限も全然無くて羽柴秀吉にとても可愛がられたんですよw

そんで羽柴秀吉より「秀」と「藤」の字を賜り『小早川藤四郎秀包』と改名するんですw

さらに従五位上・治部大輔に叙任任官もしたんですw

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも羽柴秀吉に従い参陣し活躍します!

でも実情を知らない母乃美大方はとっても心配で仕方なかったんです…

だから早期帰還が出来るように羽柴秀吉に頼んでほしいと甥輝元に訴えてたんです!

天正13年(1585年)に羽柴秀吉より河内国内で1万の所領を拝領しますw

天正13年(1585年)6月羽柴秀吉が四国征伐を開始します!!

この戦いにも従軍し伊予金子城を攻略して伊予国大津城3万5千石を拝領します!

天正14年(1586年)の九州征伐に養父隆景と一緒に参陣します!!

そんで豊前香春嶽城を攻略し戦後に筑後国久留米7万5千石に加増移封されますw

この時に同い年の立花宗茂と知り合い意気投合してるんですよw

天正14年(1586年)11月15日に次兄吉川元春が享年57歳で死去します…

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw

天正15年(1587年)に久留米城を築城して引越ししてます!

この頃に豊後国主大友宗麟の娘桂姫サンと結婚していますw

その縁で洗礼を受けてるんですよ…洗礼名は「シマオ・フィンデナオ」なんですw

さらに義父大友宗麟や妻桂姫の影響もあってキリシタン大名としての活動が増えます!

天正15年(1587年)5月6日に義父大友宗麟が享年58歳で死去します…

天正15年(1587年)7月に肥後国人一揆が勃発します!!

そんで豊臣秀吉の命令で肥後国人一揆討伐の総大将として出陣します!!

その際に田中城を親友立花宗茂と一緒に攻撃して落城させる大活躍をします!

戦勝祝いの席で親友立花宗茂と義兄弟の契りを結んでるんですよ♪

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ!

天正17年(1589年)に立花宗茂と一緒に従四位下・侍従に叙任任官しますw

天正18年(1590年)小田原征伐に参陣して活躍しています!

天正19年(1591年)長男元鎮が誕生しますw

文禄元年(1592年)からの文禄の役に5千人の兵を率いて渡航します!!

文禄2年(1592年)8月3日に豊臣秀頼が誕生しますw

文禄2年(1593年)1月26日碧蹄館の戦いで養父隆景・立花宗茂と一緒に明軍撃破します!

その戦功により5万5千石も加増されて所領は13万石となり筑後守に叙任されますw

文禄2年(1593年)5月1日に義兄大友義統が文禄の役の失態を理由に改易されます…

文禄2年(1593年)6月19日第二次晋州城攻防戦でも立花宗茂と一緒に大活躍します!!

なんと晋州城救援に来た明軍4万を4千の兵で撃破してるんですよ!!

文禄3年(1594年)に豊臣秀吉が養子の木下秀俊を毛利家に養子入りさせようと画策!

これに養父隆景が危機感を持ち…毛利宗家を守る為に小早川家で養子に迎えます!!

この人物が後の「小早川秀秋」なんですよ!

そんで廃嫡されて年下の秀秋が嫡子(跡継ぎ)になるんですよ…

だけど…養父隆景の思いを察して不満も言わず別家を創設したんです!

文禄4年(1595年)に養父隆景は義兄秀秋に家督を譲って隠居します…

文禄4年(1595年)7月15日に豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…

慶長2年(1597年)からの慶長の役にも参戦し竹島城と星州谷城を守り大活躍します!

慶長2年(1597年)6月12日に養父隆景が享年65歳で死去します…

慶長2年(1597年)8月28日に足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…

慶長3年(1598年)10月15日五大老と五奉行連名にて撤退命令が下り帰国します!

慶長4年(1599年)2月に前田利家と徳川家康の対立が一時激化しています!!

慶長4年(1599年)閏3月3日に五大老前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日に五奉行石田三成襲撃事件が勃発しています!

慶長5年(1600年)甥輝元が石田三成や安国寺恵瓊の説得を受け西軍総大将への就任を一門や重臣に相談する事なく受諾しちゃいます!!そんで豊臣秀吉への恩義もあり甥輝元の決断とは別に西軍に味方します!

慶長5年(1600年)7月17日に石田三成が甥輝元を擁立し挙兵します!!

慶長5年(1600年)8月に大坂城玉造口の守備に着いてます!

慶長5年(1600年)9月3日に立花宗茂と一緒に大津城攻めを行い落城させます!!

その後は大津城の守備を務めてたんですよ!

慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦で西軍が大敗し壊滅します!!

敗因は義兄秀秋の裏切や甥吉川広家の不戦行為とかだったんですよ…

正直2人ともあんまし仲は良くなかったんで激怒するんです!!

でも…立花宗茂らと大津城を撤退して大坂城へ撤退するんです!

そんで甥秀元や立花宗茂らと主戦論を主張しますが…

慶長5年(1600年)9月24日甥輝元は徳川家康に降伏し大坂城を退去します…

仕方なくこれに従い国許に戻る事にします…

慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…

慶長5年(1600年)10月10日西軍加担を理由に久留米藩は【改易】となります!!
慶長5年(1600年)10月14日久留米城が黒田如水・鍋島直茂率る東軍3万7千の総攻撃を受けてたんですよ…まだこの時は久留米城に向かってる途中だったんです…
城兵は500しかいなかったんで久留米城は数日後に降伏開城します…

その際に妻桂姫と長男元鎮は黒田家の人質となるんです…

帰る家を失ったんで甥輝元より長門国内に所領を与えられ引越します…

慶長5年(1600年)12月人質になってた妻桂姫と長男元鎮が戻って来ますw

小早川秀秋の裏切り行為の「とばっちり」を避ける為「毛利姓」に戻します!

そんで大徳寺で剃髪して「玄済道叱」と名乗ったんです!

これまでの無理が祟って体調を崩し療養生活を送りますが体調は回復せず…

慶長6年(1601年)3月22日に享年35歳で死去します…

墓所は山口県下関市豊北町滝部にある普賢寺にあります…

その後長男元鎮は吉敷毛利家の始祖となり長州藩の一門家老となってますw

幼少期の近松門左衛門を保護して養育したとも言われてるんですw
★☆★ちなみに…下画像は毛利秀包本人の肖像画です!★☆★

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毛利が動いてたら絶対に西軍が勝ってました!さすがに毛利が動けば小早川の裏切りもなかったと思いますw

2009/7/4(土) 午後 11:35 まるこ

小早川秀包と言った方が聞き覚えありますか?「小早川秀秋」「毛利輝元」「吉川広家」とかが同時代では有名で明らかに影になっちゃってますね…でももう少し長生きしてたらもっと著名になってたかもしれませんね!

2009/7/4(土) 午後 11:38 まるこ

毛利のことは 結構調べたつもりだったけど この方がキリシタンだったのは初耳でした

秀吉は 秀包(ひでかね・だったかな?)を気の毒がり 多少 遠慮したらしいです

小早川家も だいぶ後に毛利家臣の一つとして復活したと記憶してるけど

ちょっと自信ないです・見直そうとしたら 検索できない〜><;アウチ☆

(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆

2009/7/5(日) 午後 2:53 [ - ]

キリシタンって意外と多かったのかもしれないですね…小早川家は小早川秀秋の死によって断絶したんですが…明治時代になって最後の長州藩主毛利元徳公爵の子四郎が小早川家を再興して男爵になってますw

2009/7/6(月) 午後 5:47 まるこ

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毛利家は本当に人に恵まれてましたね。木下秀俊がもしも小早川家に養子入りしてなければ確実に「毛利の両川」は機能してたと思います。

2009/7/16(木) 午後 10:59 [ 吉川コウジ ]

吉川広家とは元々仲が良くなかったんで…もし小早川秀秋が存在しなくてもお互いの意見がぶつかり合って「毛利の両川」は機能しなかったと思います!このシステムを作った毛利元就の限界だったのかもしれませんね…

2009/7/20(月) 午後 11:28 まるこ

筑後8万石は 秀秋が養子に入る前だったんだ^^

ちょっと勘違いしてた

広家は 毛利家なかで 対立してる人がいたから 三成が 食い込む余地があったんだよね

本家大事では 全員 共通してるのに 難しいもんだね

トラバありがとう〜お返し(^ -)---☆Wink

2009/11/29(日) 午後 4:06 [ - ]

豊臣秀吉のメンコだったんで早くから所領を拝領してたんですよ…でも小早川秀秋クンの存在で人生がガラっと変わっちゃいましたからねぇ…とても残念な御仁です…

2009/11/29(日) 午後 11:31 まるこ

ごめんなさい トラバしてるつもりで まだでした^^;;

西軍が勝ったとしても 毛利内部で仲間割れしてたかもですね〜

10月10日〜同日に毛利輝元と息子の助命と防長2州への転封が決定してます

明暗分けましたね・・・広家は本家以外は助けるつもりないから安国寺の助命活動も はなからしてません

ただし 本家を救う以上の余力も無いですけどね・・トラバします

2010/1/29(金) 午後 8:43 [ - ]

「毛利の両川」は吉川元春が死去した時点でその機能を失ってますよね…小早川隆景が存命時は辛うじて毛利宗家は安泰でしたが…やっぱり坊チャン育ちの毛利輝元の我が儘には周囲が飽きれてたのかもしれませんね!吉川広家も父や叔父に比べるとスケールがちっちゃいですからねw

2010/1/29(金) 午後 11:14 まるこ

両川に変わる新体制として

毛利秀元〜吉川広家のラインで行くのが秀吉の構想だったみたいです

毛利秀元は 小早川隆景が「父・元就に一番似てる」と かなり期待してたから

秀吉の構想を次善の策として受け入れざるを得なかったと思います

小早川秀秋が 小早川家に養子に入ったために隆景の当初の構想が崩れたんだと思います

隆景の構想では 毛利宗家を秀元が継ぐ〜新両川体制〜小早川秀包と吉川広家 だったと思うんです

でも 輝元に秀就・誕生で 秀元が宙に浮き 太閤秀吉の意向で防長2カ国に秀元が入る

秀秋が小早川に入ったために 小早川は毛利から切り離される

本来なら 毛利家を支える補佐役の筆頭か次席のはずの秀包の人生が変わってしまった

優秀な人物だっただけに惜しいです

元就の子供に ハズレなしですね〜〜トラバします

2010/3/27(土) 午後 8:20 [ - ]

本当に毛利元就の子供にハズレって無いですねぇ!!小早川隆景が考えてた次世代構想がもし成就してたら立花宗茂も義兄弟契りでかなり厚めの内容になったと思いますwそれだけに…早世が残念で仕方ありませんね…

2010/3/27(土) 午後 11:05 まるこ

ちと話たりなくて・・・(*´艸`)

毛利秀元を秀吉がお気に入りだったのは官位を見ても判ります

輝元は中納言で 秀元は参議 だけど秀元の参議は結構早くて輝元と同年なんです

おまけに朝廷に任官だと輝元が従三位で 秀元が正三位です

養子から はずれた秀元に 秀吉ご指名で毛利120万石のうち 防長2カ国が秀元の領地になる

これに不満を抱いたのが 家老の宍戸です

2010/3/28(日) 午後 1:33 [ - ]

巷説では小早川隆景と穂井田の死が 取りざたされますが

文禄年間に死んだ 宍戸隆家の穴も大きいと思います

慶長年間には 石見の益田元祥の父も亡くなり 譜代の功臣が世代交代するから

外交オンチの輝元の暴走を止める実力者が いなくなるんです

小説とかでは 吉川広家の裏切りばかり言うけれど

吉川に裏切りの話を最初に持ちかけたのは 宍戸の方からです

2010/3/28(日) 午後 1:38 [ - ]

宍戸が同じく家老の熊谷と組み 吉川家老の益田を説得

3人が吉川の屋敷を訪問して裏切りの話を持ちかけるんです

毛利一門待遇の宍戸一族の当主が誘わなければ 吉川は裏切りしなかったかもしれません

自分だけなら毛利家で孤立するのは 危険ですからね

家老の二宮は すぐ元就の庶子と認められず家臣の子供として育った経緯から

優秀だけど 輝元の西軍総大将就任を留めるだけの権力はありません

補佐役の末次が 家老や補佐役の争いを収めようとしたけど

一人じゃ無理で 結局輝元の意向で動いてる

毛利秀包が長命していれば 関が原以降も続く 宍戸と秀元の争いを納めるべく尽力してるだろうし

秀元が独立騒ぎを起こす歴史も 変わったかもですね

とにかく 秀包が生きていれば 毛利内部のIFは可能性が たくさんあったと思います

2010/3/28(日) 午後 1:47 [ - ]

それだけ出来た人物だったんですよね「毛利秀包」は!急激に範領拡大した場合…大概はその際の当主が亡くなった時点で分裂しちゃうんだけど毛利家はその点ある意味で結束がとても強かったですねw毛利家のIF…考えただけで面白いですねw

2010/3/28(日) 午後 11:51 まるこ

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輝元には 悪いけど 子供が生まれない方が

養子・秀元 吉川広家と秀包の補佐で 上手くいったと思うなぁ

広家と秀包+秀元は不仲だったけど 立ち位置が違えば人間関係も変わってくるし

あぁ 何回見ても死んだのが惜しい!トラバします

2010/4/25(日) 午後 8:15 [ - ]

運命って本当に皮肉なもんですよね…惜しい御仁です…

2010/4/27(火) 午後 10:33 まるこ

遅くなったけどトラバします〜

そういえば奥方とは毛利と大友が手切れになっても離縁してないね〜

どっちもキリシタンだから仲睦まじい夫婦だったのかも^^

2010/5/28(金) 午後 5:42 [ - ]

元は政略結婚だったけど…しっかりとお互いを労り愛し合う…本当にこの時代では珍しい程の鴛鴦夫婦ですねw

2010/5/28(金) 午後 11:11 まるこ

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