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この頃の父継潤は但馬国豊岡2万石を拝領してた大名ですw 天正9年(1581年)4月の鳥取城攻めで父継潤は吉川元春の援軍を撃退し続けるとっても難しくて大変重要な仕事をこなす活躍をしてたんです!
天正9年(1581年)10月25日鳥取城が降伏開城し父継潤が城代になりますw 天正10年(1582年)父継潤の家臣田中吉政が三好秀次の宿老に抜擢されます!! ちなみに…三好秀次は後の豊臣秀次なんです! 天正10年(1582年)5月8日羽柴秀吉が備中高松城攻めを開始します!! この頃より「半人質」的な意味合いで羽柴秀吉の小姓として仕えます! 天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月4日に小早川隆景が羽柴秀吉と休戦しますw天正10年(1582年)6月13日に羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!! この間ずっと父継潤は毛利家の攻撃があった際の抑えとして鳥取城代を務めてたんです! 天正12年(1584年)毛利家と羽柴家が正式に和睦しますw 天正13年(1585年)6月羽柴秀吉が四国征伐を開始します!! 天正14年(1586年)の九州征伐が行われ父継潤も出陣します! その際に父継潤は日向国高城の戦いで島津家久軍を撃退する大活躍をします!! その活躍により父継潤は因幡国鳥取13万5千石を豊臣秀吉より拝領しますw この頃豊臣秀吉に可愛がられてて従五位下・兵部少輔に叙任され豊臣姓も拝領してますw …とか何とか言ってもこの時はまだ『5歳』だったんです… そんで父継潤は初期の五奉行の一人として活躍するんですw 天正18年(1590年)小田原征伐が行われ父継潤も出陣します! 文禄元年(1592年)からの文禄の役になんと11歳で出陣し渡航してます!! でも…実質は重臣達が代行するお飾りの状態だったんです… 文禄2年(1592年)8月3日に豊臣秀頼が誕生しますw 文禄3年(1593年)8月29日…石田三成に誘われ加藤光泰が来陣しますw そんで饗応を受けた加藤光泰が直後に吐血して急死しちゃう事件が起ります!! 真相は今だに謎なんですが…石田三成による「毒殺説」もあるんです… 文禄3年(1594年)父継潤が因幡銀山を開き豊臣秀吉より銀山経営を任されます! 文禄4年(1595年)7月15日に豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…慶長元年(1596年)父継潤が「高齢」を理由に隠居し15歳で家督を継ぎますw慶長2年(1597年)8月28日に足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…慶長4年(1599年)2月に前田利家と徳川家康の対立が一時激化しています!!慶長4年(1599年)閏3月3日に五大老前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日に五奉行石田三成襲撃事件が勃発しています!慶長4年(1599年)閏3月25日に父継潤が享年71歳で死去します…慶長5年(1600年)7月17日に石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!!この時は最初東軍に味方してたんですが… 与力の荒木重堅と垣屋恒総が西軍に味方したんで急遽寝返って西軍に味方します! そんで伏見城の戦いや大津城の戦いに参加したんです!! でも…父【宮部継潤】って存在が想像以上に大きくて周りの西軍諸大名が変に気を使ってくるんですよ…でも若いし正直宇喜多秀家や小早川秀秋みたく石高も多くないし経験もないんで西軍の中でも浮いた存在だったんです…まるで腫れ物扱い…正直同世代の宇喜多秀家や小早川秀秋らみたくチヤホヤされ期待されてると思っただけにそのショックは大きかったんです…
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦で西軍が大敗し壊滅します!!それを知って慌てて大津城より鳥取城に逃げ帰ります!!でも…東軍の亀井茲矩と斎村政広の攻撃を受けて開城降伏します… 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…慶長5年(1600年)10月に西軍加担により【改易】となるんです…慶長6年(1601年)12月17日身柄は盛岡藩主南部利直に預けられたんです… だけど約460石を支給されて高待遇を受けてたんですよw 慶長8年(1603年)2月12日に徳川家康が征夷大将軍に任官します! 慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生まれて来るんですよ… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀吉の遺言で豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫と結婚します! 慶長10年(1605年)4月13日に豊臣秀頼が右大臣に就任します! 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長16年(1611年)宇喜多秀家が死罪を免れ八丈島に流罪となるんです… 慶長16年(1611年)加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! 慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起ります…慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起ります!!慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘事件が起き豊臣家家老片桐且元が追放されます!!この頃から大坂方より豊臣陣営から誘いを受けますが断固として拒否します! 慶長20年(1615年)5月8日に大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…元和2年(1616年)4月17日に徳川家康が享年74歳で駿府城にて死去します…寛永7年(1630年)に関ヶ原の戦いで寝返り行為を行ったのは元宮部家の家臣だった田中吉政に騙されての事だとの文書を幕府に提出します!御家再興を狙ったんですよ!!でも…既に当事者の多くが死んじゃってたんで真相は不明のまま却下されるんです…
寛永9年(1632年)1月24日に徳川秀忠が享年53歳で死去します…寛永11年(1635年)11月18日に盛岡にて享年54歳で死去します…ちなみに…子孫はその後盛岡藩南部家に仕え藩家老も勤める等して存続してるんですよw ★☆★ちなみに…下画像は父宮部継潤の旧主浅井長政の肖像画で長房じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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取潰されたお殿様
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関ヶ原の戦いで二十歳そこそこじゃ
政局の判断 間違うのは無理ないなぁ
田中さん う〜ん 逆恨みのような気がしないでもない
騙されたのが事実でも それは田中さんの武略に負けたとも言うからなぁ
昼休みなんで後日ポチします〜(*^o^*)
2009/7/14(火) 午後 0:40 [ - ]
ちなみに…田中家も元和6年(1620年)8月7日に田中吉政の次代忠政の時に無嗣断絶で改易されちゃってるんですよ…だから寛永7年(1630年)に幕府に提出した書類はまさに「死人に口無し」状態だったんです…
2009/7/14(火) 午後 11:09
歴史が大好きな者です。色々廃絶大名のことを調べていますがそんなに有名な人物でない人のことまでとても詳しく載っていて感服しました。夢中になって拝見していたら今5:00amを少し回りました。(ついつい時間を忘れてしまいました)また拝読させて頂きます。有難うございました。
2009/7/15(水) 午前 5:17 [ 出羽の守 ]
出羽の守様>ご訪問有難うございますwお褒めの言葉有難うございますwつたない内容ですが気軽な気持ちで足を運んで下さいませw
2009/7/15(水) 午後 11:16
慶長5年(1600年)の今日9月7日は大津城の戦いがあった日ですね。
2009/9/7(月) 午後 4:01 [ わんこ ]
良くご存知ですねwすっかり忘れてました…恐れ入ります…
2009/9/7(月) 午後 9:35
ここも ポチし忘れてる〜(/∇\)恥ずかしい〜
(o ̄∇ ̄)σ[トラバ・傑作]ポチ☆
2010/3/27(土) 午後 9:24 [ - ]
おぉー感謝感激です!有難うごぜーます m(_ _)m
2010/3/27(土) 午後 11:46