『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

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鈴木 重朝

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鈴木重朝は紀伊国平井藩の最初で最後の藩主

戦国最強の鉄砲傭兵集団「紀伊雑賀党」の当主で通称【雑賀孫一】本人ですw

永禄4年(1561年)に紀伊雑賀党首領鈴木重意の長男として誕生しますw

永禄8年(1565年)5月19日に13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…

永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!!

永禄11年(1568年)9月30日に14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…

元亀元年(1570年)に織田信長と三好三人衆の間で野田城・福島城の戦いが勃発!!

この時父重意は三好三人衆側の援軍要請を受け三好方についてます!

その一方で足利義昭の援軍要請で畠山昭高が土橋氏を中心とする雑賀衆と根来衆を
援軍として送り出して織田信長方についたんです!雑賀衆は分裂して大規模な銃撃戦を繰り広げてたんです!!でも…

石山本願寺が野田城・福島城の戦いに介入すると父重意は土橋氏・根来衆と和解しますw

そんで協力して石山本願寺方につき織田軍と激戦を繰り広げるんです!

ちなみに…この時父重意は織田信長家臣佐々政成を負傷させてるんですw

元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中の陣中にて享年53歳で死去します…

天正4年(1576年)2月足利義昭の呼掛けで毛利輝元が織田信長包囲網に参加します!

そんで石山本願寺に海上より兵糧援助を開始するんですよ!

この頃から父重意と一緒に石山本願寺入りして織田軍と戦い活躍するんです!!

天正4年(1576年)5月7日天王寺の戦いが起こります!

この時父重意は激しい銃撃戦の末に織田信長を負傷させる活躍をするんですw

でも…結果は兵力で勝る石山本願寺側の大敗となるんです…

天正4年(1576年)7月13日木津川口の戦いで毛利水軍が織田水軍を撃破します!!

この戦い後織田信長は矛先を雑賀衆・根来衆に向け出すんです!!

天正5年(1577年)2月16日に織田信長が紀州征伐を開始します!!

この時雑賀三組(中郷・社家郷・南郷)が父重意を裏切り織田方に加担します!!

そんで織田軍は総勢10万にも及ぶ大軍勢で侵攻して来るんです!!

雑賀衆はわずか2千程で織田軍も猛攻に耐えてけど…兵力の多寡のため…

天正5年(1577年)3月15日に父重意が織田信長に降伏します…

天正5年(1577年)7月から父重意と一緒に挙兵し雑賀三組の討伐を開始します!

織田信長は佐久間信盛に8万の軍勢預け再び雑賀征伐を行いますが…

父重意と一緒に織田軍の猛攻を跳ね除けて織田軍を撃破するんです!!

天正5年(1577年)10月10日に松永久秀が享年68歳で死去します…

天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が春日山城にて享年49歳で死去します…

天正6年(1578年)6月雑賀三組の討伐を成し遂げますw

天正8年(1580年)本願寺顕如が織田信長と和議を結び本願寺を退去します…

その際に父重意も顕如の仲介を受けて織田信長と和睦するんですw

だけど雑賀党内で父重意と土橋守重らが対立し出すんです!!

天正10年(1582年)1月23日父重意は織田信長の協力の元で土橋守重を暗殺します!

これによって父重意は雑賀衆内の反織田勢力の一掃に乗り出すんですが…

天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

身の危険を感じた父重意と一緒に一時羽柴秀吉の元に非難してるんです!

結果反織田勢力の土橋氏が勢力を巻返し羽柴秀吉に抵抗します!

天正10年(1582年)6月13日に羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに雑賀衆は徳川側で参陣します!

一時は大坂城に迫る勢いを見せたんですよ!でも…

天正13年(1585年)に羽柴秀吉が紀伊征伐を行い雑賀党が滅亡します…

その際に雑賀衆を危険視した羽柴秀吉により父重意が享年75歳で暗殺されます…

そんで家督を鈴木家の家督を継ぎ『雑賀孫一』を継承するんですw

この頃より羽柴秀吉の家臣として従うんです!

天正14年(1586年)7月より始まった九州征伐にも参陣します!

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ!

天正18年(1590年)小田原征伐に参陣して活躍しています!

この活躍によって紀伊国平井1万石を拝領するんですw
ちなみに…雑賀衆の再興を願い200人程の鉄砲隊を編成しますw当時軍役は1万石につき150〜350人位の兵を割当てられてます!って事は半分以上が鉄砲の火力重視の軍編成で野村直隆と豊臣家直属鉄砲隊を形成しますw
天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では肥前名護屋城の在番を務めてます!

文禄2年(1592年)8月3日に豊臣秀頼が誕生しますw

文禄4年(1595年)7月15日に豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…

慶長2年(1597年)8月28日に足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…

慶長4年(1599年)2月に前田利家と徳川家康の対立が一時激化しています!!

慶長4年(1599年)閏3月3日に五大老前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日に五奉行石田三成襲撃事件が勃発しています!

慶長5年(1600年)7月17日に石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!!

この時に戦勝後は紀伊1国を条件に西軍に加担してるんです!

慶長5年(1600年)7月18日から伏見城攻防戦が開始され参加します!!

慶長5年(1600年)8月1日に伏見城がついに落城します…この時先鋒となり一番乗りして伏見城守備鳥居元忠を討ち取る大活躍をします!!その後伏見城の守備を務めて関ヶ原本戦には参加してません…

慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦で西軍が大敗し壊滅します!!

これを知り早々に東軍に降伏し伏見城を開城します…

西軍加担を理由に紀伊国平井藩は【改易】…死罪は免れ浪人生活を送ります…

慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)ら3人が斬首されます…

慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw

慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw

これによって豊臣家と徳川家の確執が生まれて来るんですよ…

この頃に仙台藩主伊達政宗の招きで仙台藩に仕えます!

そんで鉄砲騎馬隊の創設など仙台藩軍の増強に努めてます!!

慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します!

京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!!

慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!!

慶長11年(1606年)伊達政宗の推挙で3千石を拝領し幕臣として召抱えられます!

慶長16年(1611年)加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します!

慶長17年(1612年)2月に岡本大八事件が起こります…

慶長18年(1613年)5月17日に大久保長安事件が起こります!!

慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘事件が起き豊臣家家老片桐且元が追放されます!!

この頃から大坂方より豊臣陣営から誘いを受けますが断固として拒否します!

慶長20年(1615年)の大阪夏の陣で旗本の鉄砲衆を統率し参陣します!

だけど…鉄砲ばっかりだったんで大阪方の突撃で簡単に敗れて敗走しちゃいます…

まさに「期待外れ」だったんですよ…

慶長20年(1615年)5月8日に大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…

戦後は水戸の徳川頼房附を命じられ水戸藩の重臣となるんですw

子孫は後に水戸藩重臣を代々務め「雑賀姓」を名乗ってるんですw

元和2年(1616年)4月17日に徳川家康が享年74歳で駿府城にて死去します…

元和9年(1623年)に水戸にて享年63歳で死去します…

★☆★ちなみに…下画像は鈴木重朝(雑賀孫一)本人の肖像画です!★☆★

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媛が 鈴木さんを知ったのは 司馬遼太郎の「尻喰らえ孫一」からです

(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆

2009/8/8(土) 午後 6:39 [ - ]

逸話なので 時期が いまいちわからないけど 本願寺に味方前だと思う

織田信長と孫一は一時和解したことがあるの

信長からの 最初の使者を 孫一は殺してしまったの

2度目の使者は 稲葉一鉄

孫一は稲葉とは会い無事話がまとまり 信長と会見となった

信長は「最初の使者は なんで殺したの?」と訪ねたら

孫一「最初のヤツ 超失礼!大勢引き連れて えらそうーに馬上のままで 来たから 何か企みかと思って殺したぉ」

孫一「稲葉さんは 供数人・馬からもキチンと降りて 衣服も礼に乗っ取った・上物の仕立ての正装 でも下着は 質素な木綿だった」

「ちゃんとした使者だから会ってみたら 話も道理なんでOKしたぉ」という話だった

戦国を生き残るのは これくらいの配慮が いるんだろうな〜

使者も ウッカリすると 命がけだ・・・

2009/8/8(土) 午後 6:46 [ - ]

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人材マニアだった 初代紀州公は たしか孫一にも 仕官の声かけたはず
(司馬さんの創作でなければだけど^^;)

でも 紀州・雑賀党として縦横無尽に活躍したのに いまさら主君なんて〜〜と 断って てきな流れだった

でも こうして 水戸家に仕えてるんだから 晩年は丸くなったのかな? 長い コメであちこち すいません(−−;)

紀州の方以外で 孫一を取り上げるブログ 少ないんで テンションあがっっちゃっタ^^;

返事は まとめてかまいません〜

2009/8/8(土) 午後 6:52 [ - ]

長いコメントも大歓迎ですよwでも…いつも思うんですが…保科媛サンは本当によく勉強されてますね!!リスペクトします!司馬遼太郎の「尻喰らえ孫一」はまだ読んだ事がないんで是非拝見させて頂きますwでも…代々雑賀党の当主が『雑賀孫一』なのは紛らわしいですよね!父孫一が暗殺された時に兄達も一緒に殺されちゃってるんですが…豊臣秀吉の命を受けた実行犯は「藤堂高虎」なんですよ…それと水戸徳川家も新興大名だけ人材マニアでいろんな経歴の人(元大名や銘家の末裔等)を仕官させてますよねw代表的な人では最上義光の息子とか…佐々成政の身内とか…尼子一族なんかもいますよねw

2009/8/9(日) 午後 11:44 まるこ

諸説あるけど 親戚?をアップしたので トラバします〜

2009/9/20(日) 午後 0:11 [ - ]

TB有難うございますw感謝です!

2009/9/20(日) 午後 11:35 まるこ

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