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山中家は忍者で有名な甲賀二十一家の筆頭になる家柄でその庶流なんですよw 天文19年(1550年)5月4日に12代将軍足利義晴が享年40歳で死去します…この頃から小姓として近江六角家に仕えています!永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…永禄8年(1565年)5月19日に13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…永禄11年(1568年)9月30日に14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…そんで織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始し六角家は織田軍の前に大敗します!その後は織田信長に降伏してその配下となるんです! 元亀元年(1570年)4月織田信長が越前朝倉征伐を開始し従軍し活躍します!! 元亀元年(1570年)6月28日昼頃姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を織田・徳川連合軍が撃破!!!元亀3年(1572年)7月織田信長が5万の大軍で北近江侵攻を開始し従軍します!!元亀3年(1572年)9月に武田信玄が2万7千の兵をもって上洛を開始します! 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…天正元年(1573年)7月織田信長が再び北近江に侵攻し従軍し活躍します!!天正5年(1577年)10月10日に松永久秀が享年68歳で死去します…天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が春日山城にて享年49歳で死去します…天正10年(1582年)3月羽柴秀吉が備中攻めを開始します!!天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日に羽柴秀吉軍に合流し山崎の戦いで勝利します!!その後柴田勝家に従い3千石を拝領し柴田家の家老となるんですw 天正10年(1582年)6月27日清洲会議で行われます! それから柴田勝家と羽柴秀吉の対立が激化して来ます… 天正11年(1583年)3月の賤ヶ岳の戦いが起り羽柴軍相手に奮闘しますが… 天正11年(1583年)4月14日に柴田勝家が北ノ庄城にて享年62歳で自刃します…その後は同じ3千石で丹羽長秀の配下となるんです!天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに丹羽長重の補佐として出陣しますw 天正13年(1585年)4月16日に丹羽長秀が享年51歳で死去します…天正13年(1585年)越中征伐の際の不手際で丹羽長重が大減封されます…そのため丹羽家内で内紛が起り見兼ねて丹羽家を出奔しちゃうんです… そんで仲が良かった近江国佐和山城主(当時)堀秀政の元で居候するんです! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が太政大臣に就任しますw 天正18年(1590年)小田原征伐・奥州征伐に参陣し他家との外交交渉で活躍します! 天正18年(1590年)5月27日に堀秀政が小田原陣中にて享年38歳で死去します…文禄元年(1592年)文禄の役で肥前国名護屋城に在陣しています!文禄2年(1593年)以降豊臣家蔵入地の北袋銀山代官・筑前国蔵入地代官等を歴任!! 文禄2年(1593年)8月3日に豊臣秀頼が誕生します!! 文禄2年(1593年)9月に100石を加増されるんですよw 同時に従五位下・山城守に叙任任官もしてるんですよw 文禄4年(1595年)7月15日に豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…文禄4年(1595年)に豊臣秀吉より1万石の所領を拝領します!でも…所領は摂津国西三郡・河内国中部・近江国・伊勢国と分散してたんで領地に赴くって事は一度もなかったんですよ…そんで近畿地方の太閤蔵入地3万石の代官となるんです!基本的には常に大坂城にいるって感じだったんです!この頃より太平記の続書となる長編歴史書「中古日本治乱記」の執筆を開始します! 慶長2年(1597年)8月28日に足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)3月15日に醍醐の花見が催され警備を務めますw貞治元年(1362年)から慶長2年(1597年)迄を何とか執筆したんです!! 慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が享年63歳で死去します…そんで長編歴史書「中古日本治乱記」の執筆を一旦中止するんです…慶長4年(1599年)2月に前田利家と徳川家康の対立が一時激化しています!! 慶長5年(1600年)7月17日に石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! 大坂城常住だったんで流れで西軍に加担しちゃうんですよ… そんで大坂城留守居として大坂城周辺の守備を行ってたんです!! 慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦で東軍が大勝利します!!慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らが斬首されます…その後大坂城入りした徳川家康より西軍加担を理由に【改易】を命じられます…そんで京都に移り隠棲し悠々自適な生活を送るんですw 友人太田資方の勧めで中断してた長編歴史書「中古日本治乱記」の執筆を再開します! その後関ヶ原の戦いの終結までを執筆して完成させるんです! 慶長8年(1603年)3月21日に徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日に豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これによって豊臣家と徳川家の確執が生じ始めます… 慶長10年(1605年)4月16日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官します! 京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!! ちなみに…長男信俊の長男幸俊はその後豊臣秀頼に仕え大坂の陣に参加しています!豊臣家滅亡後は京都に逃亡生活を送った後に浅野長晟に仕えて子孫は広島藩士として存続していますwまた長男信俊の次男宗俊は徳川家康に仕え慶長14年(1609年)に1千石を拝領し直参旗本となって大坂の陣では幕府方(永井直勝組)で従軍し子孫は直参旗本として存続したんです!
★☆★ちなみに…下画像は旧主柴田勝家の肖像画で長俊じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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取潰されたお殿様
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甲賀出身だから 偽手紙?筆跡偽造が得意で 小田原の陣で活躍〜〜
って内容の短編小説があるらしい^^;
でも代官歴任してるなら かなり有能な人だね^−^
>太田資方 が調べられなかった><;アウチ☆
道灌さんの系列?主だった人にはいないと思った
検索したら 1640年くらいの同名の人がHIT><;アウチ☆
祐筆って やっぱ記録が得意なのかなぁ^^
(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆
2009/9/11(金) 午後 8:57 [ - ]
「右筆」って秘書官みたいなもんですよねw基本的には文章の代筆が本来の職務だったけど時代が進み公文書や記録の作成等を行い事務官僚としての職務になってますwそんでもって奉行や蔵入地代官職等を兼務して政策決定の過程から関与する事も戦国時代末期には多くなってたんです!石田三成とか長束正家・増田長盛も元々は豊臣秀吉の右筆衆出身なんですよ!
2009/9/11(金) 午後 11:26
ペンは銃より強し
そんなイメージを持ちました。
2009/9/12(土) 午後 11:43 [ わんこ ]
ある意味で「毒にも薬にもならない」って判断だったかもしれませんね…実際領地も各地に分散してたし大坂常住で本人としては大名って感覚もなかったかもしれませんね!
2009/9/13(日) 午後 11:45