『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

取潰されたお殿様

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佐竹 義久

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佐竹義久は常陸国武熊藩の最初で最後の藩主

【佐竹四家】筆頭である佐竹東家の当主ですw

天文23年(1554年)頃に佐竹東家佐竹義堅の次男として誕生しますw

永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…

永禄5年(1562年)に佐竹宗家佐竹義昭が隠居しその嫡男義重が家督を継ぎます!

永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…

永禄9年(1566年)に父義堅が隠居し兄義喬が家督を相続します!!

永禄9年(1566年)より佐竹義重が常陸国統一に向け軍事行動を起こします!!

その際兄義喬は南陸奥方面の総指南役として活躍します!

永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!!

永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…

元亀元年(1570年)6月28日に浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗!!

元亀2年(1571年)に北条氏政が蘆名盛氏・結城晴朝らと同盟を結びます!

そんで多賀谷政経を攻めたんで佐竹義重は援軍を送って後北条連合軍を撃退します!!

元亀3年(1572年)に兄義喬が死去します…

兄義喬には跡継ぎがいなかったんで代りに18歳で佐竹東家の家督を継ぎますw

そんで佐竹義重に従い各地で転戦して活躍するんです!

元亀3年(1572年)9月武田信玄が2万7千の大軍で上洛を開始します!

元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…

天正4年(1576年)1月織田信長が安土城の築城を開始します!

天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…

天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が春日山城にて享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!

天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝利します!!

この頃より羽柴秀吉や石田三成らと誼を通じ佐竹家代表として交渉してますw

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起きます!

天正12年(1584年)沼尻の合戦では1千挺以上の鉄砲隊を率い参陣し活躍します!!

天正13年(1585年)11月17日二本松畠山氏救援に3万の連合軍が形成されます!

そんで伊達政宗と戦い圧倒するけど即時撤退を余儀なくされちゃいます…

これが世に言う「人取橋の戦い」なんですよ…

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw

天正15年(1587年)に佐竹義重次男義広を蘆名氏に養子入りさせる事を提言します!

天正15年(1587年)12月に豊臣秀吉に奥羽惣無事を命じられます!

天正16年(1588年)佐竹義重は奥州諸大名と連合し再び伊達政宗と戦います!!

でも…この時個人的には大活躍するんだけど連合軍の足並みが揃わず苦戦…

結局は岩城常隆の調停で和睦してるんです…これが「郡山合戦」です…

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ!

天正17年(1589年)蘆名義広が摺上原の戦いで伊達政宗に大敗します…

そんで佐竹家は北から「伊達家」…南から「後北条家」に挟まれ存亡の危機に瀕します!!

この時南陸奥方面の総指南役となり伊達軍の攻勢を必死で抑えてたんです!

天正17年(1589年)に佐竹宗家佐竹義重が隠居しその嫡男義宣が家督を継ぎます!

天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原征伐を開始します!

佐竹義重・義宣と一緒にいち早く参陣して豊臣秀吉と謁見するんですw

その際に豊臣秀吉に気に入られ常陸国鹿島郡を拝領し武熊城主となるんですw

天正19年(1591年)2月に佐竹義宣が常陸国を統一しますw

その後も中央とのパイプ役等佐竹家の外交面で活躍したんですw

天正20年(1592年)からの文禄の役で佐竹義宣に従い名護屋城に在陣します!

文禄2年(1593年)6月に佐竹勢先陣総大将として渡海します!!

そんで小西行長隊に配属され熊川城の普請等で活躍するんですw

文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw

帰国後その功績により常陸国真壁郡を加増され鹿島・真壁両郡6万石の大名となりますw

同時に従五位下・中務大輔・山城守に叙任任官するんですw

さらに関東・奥羽の豊臣家直轄地1千石の代官に任命されてます!!
石高は全然違うけど島津家の伊集院忠棟や上杉家の直江兼続・毛利家の小早川隆景に相当する陪臣でありながら直臣となる超VIP待遇だったんですよ!

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…

慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…

この際に佐竹義宣と一緒に何かあったらマズいと軍勢を率いて前田利家邸に駈付てます!!

慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化しています!!

慶長4年(1599年)閏3月3日五大老前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日五奉行石田三成襲撃事件が勃発しています!

この事件の際に佐竹義宣が石田三成を助けてるんですよ!

慶長5年(1600年)6月徳川家康より会津征伐への出陣要請がきます!!

そんで佐竹義宣と一緒に上杉領南東の仙道口に出陣します!

 でも…この時…佐竹義宣は石田三成・上杉景勝らと徳川家康を挟み撃ち密約を結んでます!!

慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!!

慶長5年(1600年)7月24日下野国小山で評定が開か西軍討伐で決まります!!

この際に佐竹義重に徳川家康の追撃を進言しますが…猛反対されます!!

そんで仕方なく「家康を追撃しないんだったら少しの兵でも割いて家康に味方すべき!!そうしとけば後々何かあっても言い逃れも出来ると思います!」と進言したんです!佐竹義重がこれを認めたんで300騎で小山に駈け付けるんです!

そんで徳川家康と会って佐竹義宣の立場を釈明し佐竹領安堵の誓紙を得たんです!!

その後徳川秀忠隊に編入され中山道を西上する事になります!!

でも関ヶ原に向う途中で真田昌幸・幸村親子に徳川秀忠軍は翻弄され遅参します…

慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原本戦で東軍が大勝利します!!

慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らが斬首されます…

関ヶ原の戦いで「中立」は「西軍加担」と判断されてたんです…

慶長6年(1601年)4月に佐竹義重が陳情の為に上洛してます!

慶長6年(1601年)6月23日に徳川家康より呼び出され陳情の為に上洛します!

その際に佐竹家の国替えを伝えられるんです!!

でも小山での誓紙を理由に国替を拒否しちゃうんですよ!!
この時徳川家康は佐竹宗家が国替えを承諾した場合は…義久自身に宇都宮15万石を与えるという交換条件を提示して来たんですよ!!徳川家康にも一目置かれてたんです♪
要検討の旨を伝えて悩みながら国許に戻ります…

この件を知った佐竹家臣和田昭為が詰め寄って来ます!!

「徳川家康は我らよりかなり年上だから我らより先に死ぬのは確実!だから徳川家康が死ねば徳川家は佐竹家を思う通りには出来ない!今暫くの辛抱だぞ!!」と切替したんですw

でも…佐竹家内ではこれを裏切りと思う者も多くいたんですよ…そんでついに…

慶長6年 (1601年)11月28日に反対派により享年48歳で暗殺されちゃいます…

家督は長男義賢が継ぐんだけど…所領に関してはうやむやだったんです…

慶長7年(1602年)7月に佐竹義宣が出羽国秋田20万石へ減移封されます…

その際に所領6万石を【改易】となり長男義賢は佐竹義宣に従い秋田に移ってます…

その後は久保田藩の重臣として存続したんですw
★☆★ちなみに…下画像は宗家佐竹義宣の肖像画で義久じゃないです!★☆★

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佐竹は知ってます。でも詳しくは・・・・・勉強になります 傑作ポチです。

2009/10/30(金) 午後 2:23 [ wasyou ]

この人がいたから佐竹家は存続出来たと思いますw直江兼続・小早川隆景の影に隠れた名臣なんですよw

2009/10/30(金) 午後 2:26 まるこ

上杉における直江のような立場ですね^^

東家って 佐竹の分家みたいな感じかな?

義宣は 三成と親しかったけど 西軍に味方の判断は やはり無謀だと思います

佐竹が秋田へ移動するときに 幕府から石高不明ってイジワルされるけど
(国境問題が解決してないままでの移動だったから)

義久さん暗殺が尾を引いたのかもしれませんね

もっとも 真面目な2代様は 律儀な義宣がお気に入りだったようですが・・・^^

(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆

2009/10/30(金) 午後 7:28 [ - ]

そういえば 人取橋のとき 最初劣勢だった政宗が もうダメポって切腹しようとしたのを

小姓に 「なにやっての〜〜!!家老級が討ち死にしたわけでもないし 他の家臣の様子も判って無いのに 大将が死ぬ事態じゃないでしょ〜〜!!」って言われて 思いとどまった逸話があります

こうして全体の流れを見てると 面白いなぁ^^

2009/10/30(金) 午後 7:31 [ - ]

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関ヶ原後の沙汰について、義久が生きているうちは国替えしないと言う約束を家康としたと言う話もありますよね。その後すぐに亡くなったようなので結局秋田に行きましたが。病死、暗殺色々説があるようです。
伊達とは義重正室が伊達出身なのが災いしていましたね。

2009/10/30(金) 午後 11:20 [ Die-S-Sat ]

保科媛サン>佐竹東家は佐竹宗家15代義舜(佐竹義重の曽祖父)の弟政義が祖なんですよwその佐竹政義の孫が義久なんですwちなみに…秋田移封の際に最初幕府は出羽一国にしようとしたんだけど本多正純が「出羽半国で構わない」って事でその後の久保田藩が成立したんですよ♪でも皮肉なもんでその後本多正純が失脚した際に預けられたのが久保田藩佐竹家だったんです…周囲の心配をよそに佐竹義宣は親切に持成されたんで正純は義宣に「こんな事になるんだったら佐竹家の移封の際に意地悪しなきゃ良かった…」と話したみたいですw

2009/10/30(金) 午後 11:43 まるこ

die_s_satサン>佐竹義久の死には病死説・暗殺説っていろいろありけど…あえて「暗殺説」で行ってみましたw暗殺説にもいろいろあって江戸に近過ぎる佐竹家をどうしても移封させる為に小山での誓書「佐竹義久が生きてる内は国替しない」の裏「佐竹義久が死んだら国替をする」の意味で徳川家の刺客に暗殺されたとか…

2009/10/30(金) 午後 11:47 まるこ

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これはオラも知ってるぞ!
ところで元K1選手のサタケさんは末裔なのかな?

2009/11/7(土) 午後 10:37 [ 柴犬ライフ ]

佐竹雅昭サンと佐竹家の繋がりは…不明です!苗字が同じって事は何らかの繋がりがあるかもしれませんねwちなみに…佐竹雅昭サンは確か大坂出身だったようなぁ…

2009/11/7(土) 午後 11:03 まるこ

関係ないなんて…コメ有難うございますw

2009/11/10(火) 午後 3:12 まるこ

長宗我部阿古姫の夫で、土佐久礼城主の佐竹家が、水戸の佐竹とどういうふうに、繋がってるんでしょうか・・?。

2009/11/20(金) 午後 11:02 留守番タロ子

かなり怪しいんですが…南北朝時代に足利尊氏が建武政権に反旗を翻し上洛した時に佐竹家9代目当主義篤と弟師義が一緒に足利直義の配下として軍勢に加わってるんですよ!その後兄義篤は常陸に戻ってるんですが弟師義は足利尊氏と一緒に一時九州に逃げたりして足利尊氏に近習してるんですよwその系統ですかね…でも後年師義は常陸国山入の地を拝領し「山入氏」の氏祖となってるんですよね…って事は…ごめんなさい…わかんないです…

2009/11/20(金) 午後 11:18 まるこ

有難うございます・・・(●^o^●)

2009/11/20(金) 午後 11:22 留守番タロ子

拙いお話で申し訳ございません…m(_ _)m

2009/11/20(金) 午後 11:24 まるこ

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土佐の佐竹氏については以下のサイトが詳しいです。
http://www.nc-21.co.jp/dokodemo/whatnew1/t-satake/t-satake4.html

2009/11/24(火) 午後 5:58 [ Die-S-Sat ]

情報有難うございまーすw

2009/11/24(火) 午後 11:14 まるこ

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