『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

取潰されたお殿様

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毛利 勝信

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毛利勝信は豊前国小倉藩の最初で最後の藩主

【豊臣秀吉】の黄母衣七騎衆の一人で大坂の陣で活躍した【毛利勝永】の父ですw

両親の事とか詳しい事はわかってないんですが…

天文15年(1546年)頃に岩倉織田家重臣森某の長男として誕生しますw

お父サンは森可成・森長可とか森蘭丸とかと同族とも言われますw

同郷で同い年の山内一豊とは幼馴染だったんですw

天文19年(1550年)5月4日12代将軍足利義晴が享年40歳で死去します…

永禄2年(1559年)岩倉織田家織田信賢が織田弾正忠家織田信長に大敗します…

そんで岩倉城が落城して家族は離散し各地を流浪します…

永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いで今川義元が享年42歳で死去します…

永禄4年(1561年)頃から織田家臣木下秀吉に仕えます!

永禄4年(1561年)5月木下秀吉が墨俣一夜城建設で大活躍します!!

永禄8年(1565年)5月19日13代将軍足利義輝が享年30歳で暗殺されます…

永禄10年(1567年)10月10日松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払います!!

永禄11年(1568年)頃幼馴染山内一豊が織田信長に仕え木下秀吉の与力となりますw

永禄11年(1568年)9月観音寺城の戦いで木下秀吉に従い参陣し活躍します!

永禄11年(1568年)9月30日14代将軍足利義栄が享年29歳で死去します…

元亀元年(1570年)越前征伐に従軍しますが…

北近江浅井長政の裏切りで木下秀吉は池田勝正と明智光秀と一緒に「殿」を務めます!!

その時も従軍してて大活躍をするんです!

元亀元年(1570年)6月28日に浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗!!!

元亀3年(1572年)7月織田信長が5万の大軍で北近江侵攻を開始します!!

元亀3年(1572年)9月武田信玄が兵2万7千で上洛を開始します!

元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…

天正元年(1573年)7月織田信長が再び北近江に侵攻します!!

天正元年(1573年)木下秀吉が長浜城主となり「羽柴姓」に改姓しますw

羽柴秀吉は石田三成とか旧浅井家臣団等を多数登用します!!

この頃から羽柴秀吉の親衛隊「黄母衣」となるんですw

天正5年(1577年)長男勝永が誕生しますw

天正5年(1577年)羽柴秀吉の中国攻めに従軍し活躍するんですw

そんで播磨国内に2千石の領地を拝領しますw

天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…

天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が春日山城にて享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)5月8日から羽柴秀吉が備中高松城の水攻めを開始します!!

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

天正10年(1582年)6月4日羽柴秀吉と小早川隆景が和睦しますw

天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!

この時「黄母衣」の中で特に武勇に長けた7人「黄母衣七騎衆」のひとりに選ばれます!!

天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いにも従軍し大活躍します!!

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにも従軍し大活躍します!!

天正13年(1585年)従五位下・壱岐守に叙位任官しますw

天正14年(1586年)九州征伐にも参陣し大活躍します!!

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が関白太政大臣に就任しますw

天正15年(1587年)7月肥後国人一揆が起り一揆を鎮圧し大活躍します!!

その功績で豊前国小倉10万石を拝領し九州の玄関口(要所)を任せられますw

この時に長男勝永にも豊前国内に4万石を拝領してるんですよ!合計14万石です!!

この際に豊臣秀吉の計らいで「森姓」を中国地方の覇者毛利氏に肖り「毛利姓」に改姓してます!

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ!

天正18年(1590年)小田原征伐に参陣して活躍します!

天正20年(1592年)からの朝鮮出兵に2千人の兵で出陣します!!

その際四番隊総大将として島津義弘等南九州勢を率い渡海して江原道に侵攻します!!

文禄2年(1593年)6月19日第二次晋州城攻防戦に参加し大活躍しますw

この後暫くは暗黙も休戦状態となりその間に林浪浦城を築き朝鮮南部に在陣したんです!

文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生しますw

文禄3年(1594年)に一時帰国し伏見城築城工事に奉行として参加します!
その際…資材が不足し困ってた徳川家康に密かに豊臣家の木材を横流し援助してます!!

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…

文禄5年(1596年)9月豊臣秀吉が朝鮮再出兵を決定します!!

慶長2年(1597年)長男勝永と一緒に出陣します!!

そんで日本軍は右軍(小西行長隊)と左軍(加藤清正隊)に分れ進軍します!

この時加藤清正等と一緒に黄石山城を攻略します!

慶長2年(1597年)8月全州城にて軍議が行われます…

この時に左軍の諸将は連名で今後の作戦展望として「朝鮮南部再布陣の計画では釜山の守備を立花宗茂殿に全てを任せるとされていたが最重要拠点なんで立花宗茂殿じゃなくて毛利勝信殿に代えるべきだと思います」と言う内容の書簡を豊臣秀吉に送ります!その後は忠清道から全羅道へ侵攻し朝鮮南部に一時帰還します!!
そんで泗川倭城を築城して守将担当の島津義弘に引き渡しますw

それから釜山城に移動し守備を務めるんです!!

慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長2年(1597年)12月21日第一次蔚山城の戦いで加藤清正を救援し明軍を撃破します!!

その後に西生浦倭城へ移動し在番します!

慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…

慶長3年(1598年)10月15日五大老と五奉行連名にて撤退命令が下り帰国します!

帰国時…国内の状況が全くわかんない状態だったんです…

慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化しています!!

慶長4年(1599年)閏3月3日五大老前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日に五奉行石田三成襲撃事件が勃発します!

「恩ある太閤殿下の為に」と石田三成・大谷吉継に説得されて西軍に味方するんです!

慶長5年(1600年)7月17日に石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!!

この際小倉城に残り守備をし長男勝永は毛利秀元の与力として出陣します!

慶長5年(1600年)9月に黒田如水が兵1万で西軍派大名の居城を攻撃します!

慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原本戦で西軍が壊滅!!

これを知り黒田如水に早々に降伏し小倉城を明け渡します…

そんで豊前国小倉藩14万石は【改易】されます…

死罪を免れ身柄は長男勝永と一緒に肥後藩主加藤清正に預けられます…

助命されたのは伏見城普請時の一件があったからだったんですw

加藤清正はとても親切にしてくれましたw

慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らも斬首されます…

慶長6年(1601年)山内一豊が徳川家康に願い出た事で土佐藩山内家に移りますw

そんで家督を長男勝永に譲り悠々自適な生活を送るんですw

次男吉近は山内姓と2千石を賜り土佐藩家老に取り立てられますw

慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw

慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw

これにより豊臣家と徳川家の確執が生じます…

慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官します!

徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が拒否し続けます!!

慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!!

慶長10年(1605年)9月20日山内一豊が享年60歳で死去します…

慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します!

慶長16年(1611年)に土佐にて享年66歳で死去します…

その後…長男勝永は大坂の陣で豊臣方として大活躍をします…

☆★ちなみに…下画像は親友山内一豊の肖像画で勝信じゃないです!★☆


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秀吉に譜代っていうほどの家臣は いないけど

毛利さんは 譜代の一人に数えて いいかな っと思う^^

助命されたのは そういう裏話だったんだ^^

でもって最初は 加藤清正預かりだったんですね

勝永の大坂入城が 有名なので 最初から山内預かりだと思ってました

一豊の甥で2代藩主と勝永が 衆道の仲だったけど 二人の接点が不思議でした

親同士が 親しかったからなんですね〜納得!

(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆

2009/11/10(火) 午後 10:38 [ - ]

改名した時に毛利の了解もらうけど

仲立ちしたのが吉川広家だよ

黒田長政終わったら 吉川広家やるんで いま資料集めてるの
実は媛は 吉川広家が好きなんです ある意味マニアックです(;^_^A

2009/11/10(火) 午後 11:30 [ - ]

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こんちは!
毛利元就とは無関係なのかしら?

加藤清正ナイスですな。

2009/11/11(水) 午後 6:06 [ 柴犬ライフ ]

一応息子勝永も近い将来UPしようと思ってますw保科媛サンは吉川広家好きだったんですね!!マニアックってか…渋いっ!記事楽しみにしてますね♪

2009/11/11(水) 午後 11:08 まるこ

柴犬ライフサン>姓は同じでも血縁関係は無いですよw肖りですね!加藤清正は義理人情に厚い御仁ですwだから朝鮮出兵時に救ってくれた恩を生涯忘れる事はなかったんですよw

2009/11/11(水) 午後 11:11 まるこ

まるこさん、うちの女系は、毛利とは昔は親戚だったようです。
山内一豊とも うちげは付き合いあったとは聞いています。城を初で作る際に色々アドバイスをしたとか伝々。後々山内家ともうちの
先祖は縁戚になってます。 昔は、名門同士での婚姻だったので、ひっつりひっぱりとかが出てくるのかもしれません。加藤清正、かっこいいですね。昔は名門の所は、滅ぼさず誰かが助けるものだったと祖母がいってました。 山内家の最後の藩主の容堂さんになると私の曾祖母が子供の頃、いたく可愛がられましたよ。

2009/11/12(木) 午後 9:40 おかみ

おかみサンちは由緒正しきお家柄なんですねwまるこ家も武家ではありましたが…逆に粛清の対象になってしまって大変な目にあってます!その首謀者は「いい国作ろう〜〜」ですね!!「捨てる神あれば拾う神あり」とは良く言ったもので粛清を受け追手を逃げ切った4男坊様が潜伏先の地名を苗字にして身を隠した事がまるこ家の祖となるんですよ!!だから…今まるこは逃げる事を嫌い企業戦士として戦っています!

2009/11/12(木) 午後 11:42 まるこ

中国第三革命を描いてますが・・、寺内正毅の部下で、満蒙独立運動を裏で仕切った多賀宗之という人は、尼子の重臣、多賀宗直の子孫で、鳩山由紀夫の祖先の縁戚らしいですが、はっきり調べる方法が
ありません・・誰ぞ、教えてくださいな。

2009/11/20(金) 午後 10:50 留守番タロ子

お久しぶりですw昭和初期ですね…まるこが若干苦手とする辺りですが…ちょっと聞いて調べてみますwでも…余り期待はしないで下さいませ…

2009/11/20(金) 午後 10:58 まるこ

まるこさん所は粛清の対象になってしまったんですね。
いい国作ろうで分かりました。でもね、まるこさん昔の武家の人は、殺されるのを避けて苗字を変える人は、結構居たようです。
それとか権力のある家の養子に入り苗字を変えて
元の苗字だと敵から狙われた一族とばれ見つかれば殺されるので
養子となり、違う苗字だと逃げられるので、それで生き延び
隠れ蓑にした武家もいました。
でも、まるこさんは御先祖様に感謝ですね!
生き様とした御先祖様の頑張りと苦労の甲斐があって今のまるこさんが居るんですしね☆ 企業戦士括弧いいなぁー羨ましいです。

2009/11/22(日) 午後 3:56 おかみ

さすがおかみサンは察しがいいですねぇ〜w詳しくはWEBで!!…って事ではなく「まるこのルーツ」をご参照下さいませwでも一族郎党皆殺しって昔はある意味常識でしたからね…結局は成人した暁に御家再興を掛けて挙兵されるのも困っちゃうし…でもまるこ家は完全に歴史の表舞台からパッタリと消えましたよ!その後再び表舞台に現れるのは戦国時代…300年程は苦労してたんです…

2009/11/22(日) 午後 11:19 まるこ

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企業戦士にも休息は必要だよ!
休むのも仕事なんだから。

身体壊さないようにね!

2009/11/24(火) 午後 6:21 [ 柴犬ライフ ]

有難うございますwお互い人生無理しない程度に無茶しましょう!

2009/11/24(火) 午後 10:53 まるこ

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