『母を訪ねて3000円』

歴史って見る角度を変えると面白いかもよぉ♪『最後』に拘る♪

取潰されたお殿様

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池田 輝澄

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池田輝澄は播磨国山崎藩の最初で最後の藩主

「西国将軍」と呼ばれた【池田輝政】の4男で【徳川家康】の外孫ですw

慶長9年(1604年)4月29日姫路藩主池田輝政の4男として姫路城で誕生しますw

お母サンは徳川家康の次女督姫サンで幼名は「松千代」なんですよw

結局は徳川家康の孫になるんです!

慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が征夷大将軍に任官します!

京都で徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めたけど淀殿が反対し拒否し続けます!

慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!!

慶長14年(1609年)4月徳川家康から「松平姓」を下賜されますw

そんで「松平左近」と名乗ってたんですw

慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します!

慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…

慶長18年(1613年)1月25日父輝政が姫路にて享年50歳で死去します…

そんで長兄利隆が池田宗家の家督を継ぎ姫路藩主となるんです!

慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!

慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起き片桐且元が追放されます!!

慶長20年(1615年)2月5日母督姫が姫路城にて享年51歳で死去します…

慶長20年(1615年)2月23日岡山藩主の次兄忠継が岡山城にて享年17歳で死去します…

そんで3兄忠雄が13歳で池田家の家督を継ぎ岡山藩主となるんですw

次兄忠継と母督姫の相次ぐ訃報にいろんな噂が飛び交ったんですよ…内容は次兄忠継の実母督姫が実子である忠継を姫路城主しようとして継子(側室の子)で姫路城主だった長兄利隆の暗殺を企てるんです!!そんで岡山城内で長兄利隆が次兄忠継と対面した時に茶菓子として出される饅頭に毒を塗って長兄利隆に勧めたんです…気の利く女中が茶菓子を出す時にこっそり手のひらに「どく」と書いて長兄利隆に知らせたんです!だから長兄利隆は饅頭に一切手をつけなかったです!!実は次兄忠継も長兄暗殺計画を知らなかったんですが…これを察知して次兄忠継は長兄利隆の毒入り饅頭を奪い取って代りに食べて死去しちゃうんですよ…『身をもって正嫡の長兄利隆を守った』というんです!!次兄忠継の死を知った母督姫も事の重大さを恥じて毒入りの饅頭を食べて自殺したんです…

でも…実際は母督姫の方が先に亡くなってるし…あくまで『噂』だったんです…

慶長20年(1615年)5月8日に大坂夏の陣が豊臣家滅亡で終結します…

慶長20年(1615年)5月28日宍粟郡3万8千石を分与され山崎藩主となります!

そんで従五位下・石見守に叙任任官するんですw

元和2年(1616年)4月17日祖父徳川家康が駿府城にて享年74歳で死去します…

元和2年(1616年)6月13日姫路藩主の長兄利隆が享年33歳で死去します…

でも…跡を継いだ甥光政は7歳で要所姫路を治めるのは無理だと幕府は判断します!

元和3年(1617年)幼少を理由に姫路藩池田家は鳥取32万石に減移封されます…

元和3年(1617年)に従四位下に昇進しますw

元和5年(1619年)頃に高松藩主生駒正俊の娘天正院サンと結婚しますw

元和5年(1619年)10月に福島正則が改易されます!

元和7年(1621年)6月5日義父生駒正俊が享年38歳で死去します…

元和8年(1622年)8月に山形藩最上家が改易されます…

元和9年(1623年)本多正純が失脚し【改易】になります…

寛永3年(1626年)8月19日に侍従に任官しますw
寛永7年(1630年)7月11日岡山藩内で殺人事件が起きて『「鍵屋の辻」の決闘』に発展します!!

寛永8年(1631年)7月29日赤穂藩主の弟政綱が享年27歳で死去します…

そんで新たに播磨佐用郡3万石を分与され所領は6万8千石となるんですw

城下町開発や交通路整備等を積極的に行い多くの人材を補充したんですw

でも…急激な人材登用で旧来からの家臣達と新規召抱えの家臣達の間で争いが起こるようになります…

寛永9年(1632年)1月24日徳川秀忠が享年53歳で死去します…

寛永9年(1632年)4月3日岡山藩主の3兄忠雄が享年31歳で死去します…

でも…跡を継いだ甥光仲は3歳で要所岡山を治めるのは無理だと幕府は判断します!

そんで甥光政・光仲同士で「鳥取」と「岡山」の国替えを行うんです!

寛永9年(1632年)5月22日加藤忠廣が【改易】になります…

寛永10年(1633年)以降は江戸に常住するようになりますw

寛永11年(1634年)4男政直が誕生しますw

寛永14年(1637年)7月に奥サンの実家で「生駒騒動」が起きます!!

寛永14年(1637年)10月25日島原の乱が勃発します…

寛永15年(1638年)藩内で小頭と足軽による些細な金銭上の喧嘩が起きます!

この喧嘩が引金となり新家老小河四郎右衛門と譜代家老伊木伊織の対立が表面化します!!

この対立はだんだんと激化してくんですよ…そんで遂に…

寛永17年(1640年)御家騒動(池田騒動)に発展します!!

親戚の林田藩主建部政長の調停も失敗して伊木派藩士2千人以上脱藩します…

見かねた幕府が仲裁に入り…結局は伊木伊織以下20名に切腹が命じられます!!

寛永17年(1640年)7月26日家中不取締りを理由に【改易】を命じられます…

そんで身柄は鳥取藩主の甥光仲預かりとなるんです…

一応「徳川家康の外孫」なんで堪忍料として鳥取藩鹿野に1万石を与えられますw

その後は剃髪して「石入」と号して悠々自適な生活を送るんですw

寛永17年(1640年)8月義弟生駒高俊が「生駒騒動」の為【改易】されます…

慶安4年(1651年)4月20日3代将軍徳川家光が享年48歳で死去します…

寛文2年(1662年)4月18日鹿野にて享年59歳で死去します…

墓所は兵庫県神崎郡神河町福本の徹心寺で戒名は「大雲院殿一円徹心大居士」です…

その後4男政直が播磨国福本1万石を拝領し大名に復活するんですが…

★☆★ちなみに…下画像は父池田輝政の肖像画で輝澄じゃないです!★☆★


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池田家は実は短命な一族だったんですね。
以外と苦労してた事に驚きです。
急激な加増がなければ名君として名を残してたんでしょうね。
勉強になります。

2009/12/9(水) 午前 7:30 [ わんこ ]

ほんとに 輝政死後は 大変でしたね^^

大久保事件を乗り切ったところは さすがだなぁ

督姫は 実際のところ どうだったかは よくわかりませんね

輝政は かなり気をつかってたらしいですけど

今日も 面白かったです〜

(o ̄∇ ̄)σ[ランクリ・傑作]ポチ☆

2009/12/9(水) 午後 2:37 [ - ]

わんこサン>池田家は短命だったのは池田輝政の息子達位ですかね…実際詳細はわからないんですよ…すんません…

2009/12/9(水) 午後 11:22 まるこ

保科媛サン>池田家って本当苦労続きですよね…小牧・長久手の戦いの時に一度ヤバい感じになってその後次男坊の輝政サンが頑張って一時は一族郎党合せ100万石弱の大領を治める迄に池田家を繁栄に導くんですが…結局は外様でありながら一門の扱いを受けます!!でも輝政・督姫夫妻が亡くなって祖父徳川家康も亡くなってからは幕府に目を付けられちゃってますからね…でも幕末迄大藩を維持したのは立派ですw

2009/12/9(水) 午後 11:22 まるこ


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