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生年月日や両親の事はわからないんですが幼名は「勝太」です… 元亀元年(1570年)4月織田信長が越前朝倉征伐を開始します!! 浅井長政は織田信長との同盟を破棄し全面対決をするんです!! 元亀元年(1570年)6月28日昼頃姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗!!元亀3年(1572年)7月織田信長が5万の大軍で北近江に侵攻を開始します!!元亀3年(1572年)9月武田信玄が2万7千の兵をもって上洛を開始します! 元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…天正元年(1573年)7月織田信長が再び北近江に侵攻します!!天正元年(1573年)9月1日浅井長政が小谷城にて享年29歳で自刃します…天正2年(1574年)長浜城主となった羽柴秀吉は近江国内で人材発掘に励みますwこの際羽柴秀吉の元に行き小姓として仕え出し可愛がられてたんですw 天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が春日山城にて享年49歳で死去します…天正10年(1582年)3月羽柴秀吉が備中攻めを開始します!!天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が山崎の戦いで勝利します!!天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝利します! この頃に近習組頭となるんですよ! 天正12年(1584年)小牧・長久手に黄母衣衆として初陣します!! 天正13年(1585年)四国征伐に従軍します! 天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が太政大臣に就任しますw 天正18年(1590年)小田原征伐・奥羽征伐にも出陣します! 天正20年(1592年)の文禄の役で名護屋城本丸広間番衆六番組頭を務めます! 平時には豊臣秀吉のSPとして身辺警護に当るんですw この頃近江・大和・紀伊国内等合計1万5千石を拝領し従五位下・甲斐守に叙任しますw 文禄2年(1593年)8月3日豊臣秀頼が誕生します!! この頃奉行職を兼務して検地等で活躍もしますw 文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命で享年28歳で切腹します…この頃にさらに加増され合計4万石となるんですw慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が大坂城にて享年63歳で死去します…豊臣秀頼に仕え親衛隊「七手組筆頭」として活躍しますw慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!! 慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!石田三成に西軍加担を誘われるけど中立的立場を貫くんです!! 慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁立し挙兵します!! 一応大坂城守備を務めてたんだけど… 慶長5年(1600年)9月3日兵力の埋合せで大津城攻めに参陣します… 大坂城では徹底抗戦を主張する立花宗茂らと対立します… 慶長5年(1600年)10月1日六条河原で西軍首謀者石田三成(享年41歳)らも斬首されます…戦後徳川家康が戦後処理で豊臣家の所領を勝手に分配し日本全国220万石あった所領は摂津・河内・和泉65万石に減封されるんです…これに伴い一旦【改易】となり改めて河内国内1万石を拝領wこの際長男出来麿(後の伝吉)を人質として徳川家康の元に出します… 慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw 慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw これで豊臣家と徳川家の確執が生じ始めます… 慶長8年(1603年)7月豊臣秀吉の遺言で徳川秀忠娘千姫と豊臣秀頼が結婚します! 慶長10年(1605年)4月13日豊臣秀頼が右大臣に就任します! 慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠が2代将軍に就任します!! 徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が反対し拒否し続けます!! 慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!! 慶長16年(1611年)加藤清正らに守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します! その際本多正純・渡辺守綱らと一緒に二条城城門の警護に行います!! 慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件が起こります!!そんで幕府と豊臣家の和平調停に家老片桐且元と一緒に務めるけど…失敗します!! でも…結局片桐且元のみが内通を疑われ大坂城を追放されます… その後豊臣家中の調停に努めます!! 豊臣家の孤立が強まり焦りから兵糧や浪人を集め出し幕府と対決し始めます!! 挙兵直前大野治長らは軍議を開くべく七手組に声を掛けます!! でも挙兵に疑問を持つ七手組一員青木一重は「大御所とは旧知の仲」と大反対!! 堀田盛高・中島氏種らも「面倒臭いから会議に出たくない」と不平を言います… 不満分子全員を一生懸命説得して何とか軍議に出席させます! でもこの時既に七手組の中でも幕府方に内通してた者がいたんです… 豊臣恩顧大名に檄を飛ばすけど豊臣方に味方する者はいなかったんです… 真田幸村・後藤又兵衛・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登らが大坂に入城します!!そんで浪人衆は士気旺盛だったけど寄せ集めなんで統制は取れてませんでした…さらに浪人衆と大野治長・淀殿らが最後まで対立します…真田幸村・毛利勝永らが京都進撃を主張したけど大野治長等が反対し大坂城篭城に決定します! 慶長19年(1614年)11月19日大坂冬の陣が勃発します!!そんで大坂城西ノ丸惣構鰻谷橋を守備したんです!慶長19年(1614年)11月26日鴫野の戦いで上杉景勝軍相手に奮戦します!! 慶長19年(1614年)12月20日外堀の埋立を条件に和議が成立します! 慶長20年(1615年)1月幕府方は約束を破って内堀も埋めます!! 怒って幕府に猛抗議するけど無視され逆に浪人総追放や国替えを要求されるんです… 八尾・若江や道明寺で戦いで長宗我部盛親が藤堂軍を壊滅させます! 慶長20年(1615年)5月6日後藤又兵衛基次が享年55歳で討ち死にします…慶長20年(1615年)5月7日天王寺・岡山の戦いに出陣します!!真田軍の後詰を務め毛利勝永らと一緒に藤堂高虎軍を壊滅させます!! 一時徳川家康本陣に迫る勢いだったけど兵力差に勝る幕府軍に敗北し大坂城に撤退します! 慶長20年(1615年)5月7日真田幸村が享年49歳で討ち死にします…幕府軍が大坂城内に侵入し天守閣が炎上します!!大混乱の中で出撃しようとする豊臣秀頼を説得し諦めさせます! 豊臣秀頼と淀君らと山里丸の籾蔵に逃げ込むけど徳川軍に包囲されます… 大野治長と一緒に徳川家康に豊臣秀頼らの助命を嘆願するけど…無視されます… 籾蔵を脱出した千姫の助命嘆願も無視されちゃいます…諦めた豊臣秀頼は… 慶長20年(1615年)5月8日豊臣秀頼が享年23歳で自刃します…この際…介錯を務めます…同じ日に淀殿(享年46歳)・大野治長(享年46歳)・毛利勝永(享年38歳)らも自害します…慶長20年(1615年)5月8日享年45歳位で自刃します…ちなみに…その後長男伝吉は豊臣秀頼に対する速水守久の忠節を賞されて許されたんです…そんで少録ながら家名を存続する事が出来たんですよw
★☆★ちなみに…下画像は豊臣秀頼の肖像画で守久じゃないです!★☆★【にほんブログ村 江戸時代】←ポチっとしてくれると嬉しいw 【ブログランキング】←ここもポチっとしてくれると嬉しいw
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七手組って 大坂の陣のときは 使い物にならないイメージだったけど
最期まで尽くした人も いたんですね
認識を改めました
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2010/1/3(日) 午後 2:57 [ - ]
実際「七手組」って豊臣秀吉が元々1万人いた精鋭親衛部隊を7部隊に分けたものなんですよね!だから…単純に1部隊は約1400位…やっぱり兵力としては大した事なかったんですよね…でも歴史に若干埋もれちゃってる御仁だけに何とか認知度を上げてきたいです!!
2010/1/3(日) 午後 5:31
本格攻撃というか メンツが揃ったのは9月7日だったらしいけど
戦闘そのものは 3日から始ってたようですね
自分の記事からは省いたけど 末次隊が 城下を焼いたりしてたそうです
トラバします
2010/3/27(土) 午後 8:53 [ - ]
大津城の戦いの概要は知ってても詳細を知らなかったんで助かりますw有難うございますw
2010/3/27(土) 午後 11:28
始めまして 守久の末裔 屋号 兵右衛門と名乗ります。
守久の紹介を拝見し ご相談です。 守久の妻と 二男 佐右衛門伝吉について 新潟県の速水義則様資料によると 島津家に寄る と記述で 後の資料が無く 佐右衛門家の過去帳に 速水兵右衛門の倅と書かれています。 この資料の関係について 教えて頂ければと メールさせて頂きました。 返事お待ちします。
2011/2/16(水) 午後 7:29 [ 兵右衛門守久 ]